「山本昌」の版間の差分

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{{by|1988年}}2月、中日は業務提携していた[[ロサンゼルス・ドジャース]]と同じ{{仮リンク|ベロビーチ|en|Vero Beach, Florida}}でキャンプを行い、山本ら若手選手5人{{Efn2|山本以外の若手選手4人は投手は[[西村秀嗣|西村英嗣]]、野手は[[藤王康晴]]・[[神山一義]]・[[前原博之]]<ref>「133キロの怪速球」75頁</ref>。}}が野球交換留学としてそのままアメリカに残ることになる<ref>[[#山本昌|山本昌]]、74-75頁。</ref>。しかし、実情は中日がドジャースとの交流関係を保つために、その年の戦力にならない選手を選んで派遣する必要があり、山本については「手足は長いし、体も大きい。巨体揃いの本場アメリカの指導者ならこういう選手の扱いに慣れている分、うまくいくかもしれない」という一縷の期待を掛けられてのものだった<ref>{{Cite web |url=https://superceo.jp/sp/tokusyu/athlete/100373 |title=50歳現役を叶えた運命の出会いと 崖っぷちで掴んだ最強の武器|元中日ドラゴンズ 山本 昌|小松成美が迫る頂上の彼方 |publisher=SUPER CEO |date=2017-06-12 |accessdate=2020-07-15}}</ref>。
 
この年のオープン戦第1戦ではノックアウトされており、星野からは「死ぬまで走っておけ!」と命じられ、その日は2、3時間は走った<ref name="yamamoto7677">山本昌、76-77頁</ref>。それからしばらくして、ドジャース傘下の[[マイナーリーグ|マイナーリーグ(1A)(1A)]]のベロビーチ・ドジャースに所属することになり、チームメイトと帯同して[[フロリダ・ステートリーグ]](1A)(1A)で試合を行うことになる<ref name="yamamoto7677"/>。事実上の戦力外通告であり、留学生という立場上頑張ったところで2Aへの昇格もあるはずもないためふてくされていたが、現地の選手たちが1Aで優勝するという目標を宣言していたことからふてくされていた自分を反省<ref name="yamamoto7778">山本昌、77-78頁</ref>。そして、そこで前年に山本を指導していたドジャースの世話役・[[生原昭宏|アイク生原]]との再会が人生の転機となる<ref name="yamamoto3">山本昌、3頁</ref>。生原からは投手の基本である低めへのコントロール、[[カーブ (球種)#スローカーブ|スローカーブ]]の精度の向上、その他生活習慣を厳しく指導されたが、特に大きかったことは消えかけていた野球への熱意や楽しさを再び思い出させてくれたことであったという。
 
3月ころ、生原がドジャースの往年の名投手[[サンディー・コーファックス]]に山本のピッチングを見せたところ、「アイク、あのピッチャーはだめだよ。彼は[[サイドスロー]]にするか、トラックの運転手になるか、どっちかにしたほうがいいんじゃないの」という評価だったという<ref>[[#山本昌|山本昌]]、127-128頁、[[#生原喜美子|生原喜美子]]</ref>。また、これも3月、生原に連れられてロサンゼルス・ドジャースの[[フェルナンド・バレンズエラ]]のピッチング練習を見に行くが、その[[シンカー・スクリューボール|スクリュー]]があまりに衝撃的であったために「投げられる訳がない」と思ったという。その2か月ほど後、チームメイトのメキシコ人内野手[http://www.baseball-reference.com/minors/player.cgi?id=spagnu001jos ジョゼフ・スパニュオーロ]が、試合前のキャッチボールでスクリューボールを投げていたのを見て投げ方を教えてもらう<ref>[[#山本昌|山本昌]]、16-19頁。</ref>。自分で投げてみたところ、驚くほど球が曲がった。2日後、試合でも使ってみたところ、決め球として通用。さらにスクリューを投げるために手首を立てて投げるようになるとストレートのキレも増し、先発ローテーションに定着。ついには1Aの[[オールスターゲーム]]まで呼ばれるようになり、それを見た対戦相手の数球団のスカウトが評価、[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]の[[ロースター (MLB)|ロースター]]入りを正式に打診された(ドジャースからは打診がなかった)。しかし、山本の成長ぶりをビデオで見た星野が呼び戻すことを決定、リーグ優勝を実現するための戦力とするべく、当初1年間のはずであった留学予定が切り上げられた(ただし、星野自身は、「そのままメジャーでやらせてあげてもよかったが、球団社長の意向で」と発言し、あくまで自分の意思・判断ではないなどと主張している)。このため、ロースター入り・[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]デビューはならなかった。ベロビーチ・ドジャースでの成績は、13勝7敗、防御率2.00<ref>[http://www.baseball-reference.com/minors/player.cgi?id=yamamo001mas BASEBALL-REFERENCE.COM]</ref>。同じ3月、現地の歯医者で全身麻酔を打たれて丸1日眠り、それから2日間の安静を余儀なくされた<ref name="yamamoto8285">山本昌、82-85頁</ref>。合計3日間ランニングすらしておらず体調も最悪な中で投手が底を尽きたため止む無く登板したが、延長12回から4イニングを投げて[[勝利投手]]になったというエピソードを残した<ref name="yamamoto8285"/>。
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==== 1990年代 ====
{{by|1990年}}は前年の雪辱をバネに初のシーズン10勝を挙げた。この年同じ左腕の[[今中慎二]]も10勝を挙げ、90年代共に左の2枚看板・Wエースとして中日投手陣を支えた。
 
{{by|1991年}}、開幕から[[先発ローテーション]]を守ったものの、中々勝ち星に恵まれず9月を最後に先発からも外れてしまう。ローテーション投手の中で1人負け越してしまい、チームも終盤広島に逆転され優勝を逃す。
 
{{by|1992年}}、恩師のアイク生原が永眠。精神的ショックは大きく、葬儀の場では棺の前で泣き崩れて立ち上がれず、同じく生原に世話になり同席していた[[長嶋一茂]]らに抱き起こされなければ立ち上がれなかったほどであった。棺には前年までのシーズン自己最多勝利数を更新した、11勝目のウイニングボールを納めた<ref>[[#山本昌|山本昌]]、129頁</ref>。最終的にチームは最下位に沈んだもののシーズン13勝を記録した。
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{{by|1995年}}、長年の勤続疲労から左肘、左膝を痛め4月末に一軍登録を抹消。6月半ばに復帰したが、約1か月間勝てず、この年は終始不調で6年続いていた規定投球回をクリアもできず、わずか2勝に終わる。
 
{{by|1996年}}、前年の故障の影響で4月末まで一軍復帰できなかったが、復帰後はシーズン最後まで先発ローテーションを守り、勝ち星こそ恵まれず2年連続で1桁勝利な上に負け越したが、2年ぶりに規定投球回をクリアした。なお、この年の7月14日のホームでの[[阪神タイガース|阪神]]戦で[[新庄剛志]]からど真ん中への失投による3点本塁打を打たれたため星野の怒りを買い、しかもど真ん中へ失投したことを山本自身が否定したため「あんなやつ、やめさせちまえ!」と星野に油を注ぐ格好となった。結局[[島野育夫]]ヘッドコーチと共に翌朝謝罪しに行ったが、星野は「なんかあったのか?」と自宅を訪れた2人に対してとぼけて許した<ref>山本昌、99-101頁</ref>。
 
{{by|1997年}}、前年チーム最多勝だった今中が怪我で離脱していたこともあり、初の[[開幕投手]]を任され、[[開幕戦]]の対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]では8回2/3を自責点2で勝利([[ナゴヤドーム]]初の公式戦で、同球場で初めて勝利を記録)。直前に左太ももに軽度の肉離れを負ったが、恥ずかしさと申し訳なさから隠し通した上で開幕戦勝利を収めた<ref>山本昌、112-113頁</ref>。チームは最下位だったものの抑えの[[宣銅烈]]とともに奮闘し、18勝を挙げ、3年ぶり3度目の最多勝と初の[[最多奪三振 (日本プロ野球)|最多奪三振]]を獲得。同年オフ2年契約、「2年間で合計20勝出来なかった場合は2000年度の年俸はダウン」の条項を組み込んだ契約を結ぶ。
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==== 2000年代 ====
{{by|2000年}}は左の勝ち頭として3年ぶりの2桁勝利となる11勝を挙げる。防御率ではチーム全日程を終えた段階ではリーグトップに立っていたが、リーグ最終戦でヤクルトスワローズ[[石井一久]]に抜かれ、わずか0.004点差でタイトルを逃す。
 
{{by|2001年}}は3年ぶりに連続開幕投手に抜擢されたが、援護に恵まれない試合が多く、なんとか2年連続2桁勝利は挙げたものの、プロ入り初のリーグ最多敗戦で自己ワーストとなる13敗を喫する。
 
{{by|2002年}}は2年連続開幕投手になったが4月末まで0勝4敗、防御率も7点近くと調子を落としていたが、7月28日の3勝目以降、5勝2敗と復調している<ref>週刊ベースボール2002年12/16号 62頁「保存版 記録の手帳 公式戦出場全選手個人成績 2002年プロ野球ペナントレース統括」より。</ref>。しかし、開幕から中盤まで二軍落ちや中継ぎに配置転換などがあったため、自身2度目の6年連続続いていた規定投球回をクリアできなかった。
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{{by|2008年}}、4月2日の対巨人戦での登板で、投手としては[[大野豊 (野球)|大野豊]]の22年を抜き、野手を含めても[[衣笠祥雄]]の23年と並ぶセ・リーグ最長の実働年数(プロ野球最長は2010年現在[[工藤公康]]の29年)となった。5月7日の対広島戦で6回を2安打無失点5三振に抑え、シーズン初勝利。5月14日の対[[東京ヤクルトスワローズ]]戦で史上26人目となる通算3000[[投球回]]を達成。8月4日、ナゴヤドームでの対巨人戦で[[完投]]勝利。プロ野球史上24人目となる通算200勝を達成した。中日球団投手の200勝達成は[[杉下茂]]以来51年ぶり、42歳11か月での200勝と完投勝利は共に史上最年長記録。200勝達成投手の中でも1年目が未勝利なのは史上6人目であり<ref name="yamamoto4"/>、5年目に初勝利を挙げたのは最も遅い記録。中日ドラゴンズの投手として初の[[日本プロ野球名球会]]入会([[昭和]]生まれではない杉下は入会資格は無い。なお、後に[[岩瀬仁紀]]も250セーブを達成して入会を達成している)となった。8月24日の対巨人戦にて史上最年長完投記録を更新(43歳0か月)、史上最年長2桁勝利を記録。8月は4勝1敗の好成績を挙げ、史上最年長で[[最優秀選手 (野球)#月間MVP|月間MVP]]にも選出された。この年は43歳ながらチームトップの11勝を挙げる。10月2日、故郷の[[神奈川県]][[茅ヶ崎市]]から茅ヶ崎市民栄誉賞が贈られることが決まり<ref>[http://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/profile/005584.html 茅ヶ崎市民栄誉賞] - 茅ヶ崎市ホームページ 2010年12月11日閲覧</ref>、その授賞式が12月27日に[[茅ヶ崎市総合体育館]]にて執り行われた。自著では後に「[[加山雄三]]さんや[[桑田佳祐]]さんといった超大物の芸能人を輩出した湘南の街で、おふたりともまだ受賞されてないというのに…」と謙遜するコメントを発表している<ref name="yamamoto4"/>。
 
{{by|2009年}}、開幕から二軍での調整が続き、[[ウエスタン・リーグ]]公式戦では投球回数が合計で100イニングを超えている。6月に一軍に上がるが、先発した試合で打たれ再び二軍降格。9月11日にようやく一軍再登録を果たし、同日の対ヤクルト戦でシーズン初勝利。[[大野豊 (野球)|大野豊]]が持つセ・リーグ記録を更新する22年連続勝利を記録した。しかし勝利はこの1勝だけで一軍定着後自己最低の成績で終える。また、6年周期100イニング未満で終わるシーズンを3回経験する事となった。
 
==== 2010年代 ====