「徳川家康」の版間の差分

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→‎清洲同盟から三河国平定: 菊地浩之「家」由来説補強
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永禄4年([[1561年]])先に今川氏を見限り織田氏と同盟を結んだ伯父・水野信元の仲介もあって、信長と和睦し、今川氏と断交して信長と同盟を結んだ('''[[清洲同盟]]''')(『史料総覧』巻10){{Sfn|谷口|2012|p=82-89}}。同年4月[[西三河]]で今川氏との戦いが開始された。永禄5年([[1562年]])には、家康と信長が会って会談し、同盟の確認をして関係を固めている{{Efn|一般的に場所は清州城と言われ同盟の名になっているが、史実上の場所は不明である{{Sfn|谷口|2012|p=83-86}}。}}{{Sfn|谷口|2012|p=82-89}}。{{要出典範囲|一方、将軍・足利義輝や北条氏康は松平・今川両氏の和睦を図るが実現しなかった。|date=2020年5月}}
 
永禄6年([[1563年]])には、義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から'''家康'''と名を改めた。「家」を選んだ理由は明確ではないが<ref>[[中村孝也]]『新訂 徳川家康文書の研究』上巻、吉川弘文館 2017年「第二篇 岡崎在城の時代」</ref>、[[菊地浩之]]は於大の方の再婚相手である[[久松俊勝]]が「長家」と名乗っていた時期があることを指摘し{{Efn|家康が大名となり、その権勢が拡大して逆に「家」のつく名「長家」をはばかり「俊勝」と改名したとする<ref name="菊池「家」由来説" />。}}、久松長家(俊勝)を父親代わりとみなしてその偏諱を用いたが、[[徳川家光|家光]]以後に「家」の[[諱#通字|通字]]が[[徳川将軍家]]として重要になり、由来を隠したとする説を唱えている<ref name="菊池「家」由来説">菊地浩之『徳川家臣団の謎』角川書店<角川選書>、2016年 {{ISBN2|978-4-04-703598-0}} pp.100-101</ref>。同年3月には、同盟の証として嫡男竹千代([[松平信康|信康]])と信長・娘[[徳姫|五徳]]との婚約が結ばれる。
 
永禄7年([[1564年]])、[[三河一向一揆]]が勃発するも、苦心の末にこれを鎮圧。こうして岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進めた。東三河の[[戸田氏]]や[[西郷氏]]といった土豪を抱き込みながら、軍勢を東へ進めて[[鵜殿氏]]のような敵対勢力を排除していった。遠江国で発生した国衆の反乱([[遠州忿劇]])の影響で三河国への対応に遅れる今川氏との間で[[宝飯郡]]を主戦場とした攻防戦を繰り広げた後、永禄9年([[1566年]])までには東三河・奥三河(三河国北部)を平定し、三河国を統一した。この際に家康は、西三河衆(旗頭:[[石川家成]](後に[[石川数正]]))・東三河衆(旗頭:[[酒井忠次]])・旗本の三備の制への軍制改正を行い、旗本には[[旗本先手役]]を新たに置いた。