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== 来歴 ==
[[裁判官]]であったの木村徳之助の赴任先であった[[長野県]][[松本市]]で生まれ育つ。女子美術専門学校(現・[[女子美術大学]])師範科日本画部卒業。[[郷倉千靱]]に師事。
 
[[数学者]]の[[荘司篤]]と結婚後は[[仙台]]に移り住む。長女は日本画家の[[小野恬]]。結婚後は作家活動を休止していたが、夫の篤が[[結核]]に倒れ、画家としての活動を再開。1941年第6回東北美術展(現・[[河北美術展]])に出品。第10回東北美術展で河北美術賞受賞。1951年[[日本美術院]]院友、1981年日本美術院評議員。
 
仙台、その後は[[東京]][[横浜市|横浜]]と移り住み、戦後は[[油絵|油彩画]]の要素を取り入れた日本画制作を行った。晩年まで創作意欲は尽きることなく、取材旅行でインド、ネパール、エジプト、ケニアを訪問。特に思い入れの強い[[東北地方]]と仏教遺跡、自然との融和を図った作品を数多く発表し、静謐で玄妙な画風を確立した<ref>[http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/press/2009r_shojifuku.pdf 神奈川県立近代美術館]</ref>。
 
2002年10月19日、[[老衰]]のため死去。