「田中六助」の版間の差分

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[[1982年]](昭和57年)11月、中曽根内閣が成立すると、政調会長に留任する。宮澤との一六戦争も加熱し、宮澤が派閥横断的な議員グループ「平河会」を主催すれば、それに対抗して田中も「新世代研究会」を結成してことごとく張り合った。しかしこのころから、三十代から患い始めていた[[糖尿病]]が悪化。政調会長として衆議院本会議で代表質問に立った際、白内障のため新聞の見出しほどの大きさに印刷した分厚い原稿を読めずに立ち往生する姿がテレビ中継され、入院を余儀なくされる。
 
病床に倒れても抜群の行動力は衰えず、ロッキード裁判渦中の田中元首相と隠密裏の会見を続け、ロッキード判決選挙で自民党が解散前の286議席から250議席に激減した際には[[新自由クラブ]]を取り込んで連立政権を作り政権維持に成功した。選挙後、中曽根首相は「いわゆる田中(角栄)氏の影響を排除する」総裁声明を発表。これによって幹事長交代を余儀なくされた[[二階堂進]]の後任として宮澤と田中の名が取りざたされたが、最終的には宮澤を推した鈴木や[[伊正義]]らを中曽根が押し切る形で田中が就任する。宮沢は「これほどの屈辱を味わったことがない」と思わず独白したという。
 
幹事長就任後、病状が悪化し、[[1984年]](昭和59年)8月28日東京女子医大病院に入院。この頃表面化した[[二階堂擁立構想]]について、[[金丸信]]総務会長宛に長さ3.5メートルもの書簡を送り、中曽根に失政がなく、党内抗争が国民世論の反発を買うことを批判する内容を列挙し、中曽根再選を後押しした。