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'''天野 宗歩'''(あまの そうほ(「そうふ」とも)、[[文化 (元号)|文化]]13年([[1816年]]) - [[安政]]6年[[5月13日 (旧暦)|5月13日]]([[1859年]][[6月13日]]))は、[[江戸時代]]末期の[[将棋指し]]<ref name=hikae>{{Cite |和書|others=[[山本博文]]監修|title=江戸時代人物控1000|date=2007|publisher=[[小学館]]|isbn=978-4-09-626607-6|page=17}}</ref>。正字表記では'''天野宗步'''。七段。[[大橋宗桂 (11代)|十一代大橋宗桂]]門下。11代将軍[[徳川家斉]]から14代将軍[[徳川家茂]]までの人物である。時の名人は、十世の[[伊藤宗看 (6代)|六代伊藤寿]]であった。
 
大橋家、伊藤家といった将棋三家の出ではないため<ref>ただし、将棋家の子息に適当な人物がいない場合、弟子が将棋家の養子となって家を継いだ例は多くある。実際に宗歩の弟弟子の上野房次郎は[[伊藤宗印 (8代)|八代伊藤宗印]]となり、名人となっている。</ref>、当時世襲制だった[[名人 (将棋)|名人]]には推挙されず、段位も七段までしか上がらなかったが、「'''実力十三段'''」と言われ<REF>なお囲碁の世界では[[本因坊道策]]が「実力十三段」とよばれた。</REF>、後に[[棋聖 (将棋)|棋聖]]と呼ばれるようになる<ref>なお「名人になれなかった、棋聖とよばれる棋士」として、囲碁界では[[本因坊秀策]]がいる。</ref>。十三世名人[[関根金次郎]]によって'''棋聖'''の称号が公式に認められた。現在の[[タイトル (将棋)|タイトル]]のひとつである「[[棋聖戦 (将棋)|棋聖戦]]」は、ここに由来する。