「万葉集」の版間の差分

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そのほかにも、「末永く伝えられるべき歌集」([[契沖]]や[[鹿持雅澄]])とする説、葉をそのまま木の葉と解して「木の葉をもって歌にたとえた」とする説などがある。{{要出典範囲|date=2021年2月|研究者の間で主流になっているのは、『[[古事記]]』の序文に「後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲ふ」とあるように、「葉」を「世」の意味にとり、「万世にまで末永く伝えられるべき歌集」ととる考え方である}}{{誰2|date=2021年2月}}。
 
なお、「万葉(萬葉)」という言葉は、『万葉集』以外では当時において用いられている事例はほとんど見られず、早い事例として、延暦25年(大同元年・806年)4月16日に[[五百枝王]]が[[平城天皇]]に対して臣籍降下と[[春原氏|春原朝臣]]の賜姓を願い出た際の上表文に「榮宗枝於'''萬葉'''」という句が見られるのが挙げられる(『日本後紀』)。なお、この五百枝王を『万葉集』を今日知られる形にした最終的な編者に充てる説があり(後述)、この上表文も五百枝王が『万葉集』の編纂及び表題決定に何らかの関与をした状況証拠とする研究者もいる<ref name=yasuda>安田喜代門『万葉集の正しい姿』(私家版、1970年)P130.</ref><ref name=kimoto>木本好信「志貴皇子系諸王と『萬葉集』の成立」『奈良平安時代史の諸問題』和泉書房、2021年(原論文:『龍谷大学日本古代史論集』3号、2020年)2021年、P95-104.</ref>。
 
=== 編者と成立年代 ===
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#:[[延暦]]2年([[783年]])ごろに[[大伴家持]]の手により完成したとされている。
 
ただし、この『万葉集』は延暦2年以降に、すぐに公に認知されるものとはならなかった。延暦4年([[785年]])、家持の死後すぐに大伴継人らによる[[藤原種継]]暗殺事件があり家持も連座したためである。その意味では、『万葉集』という歌集の編纂事業は[[平城天皇]]即位後の恩赦により家持の罪が許された延暦25年([[806年]]・[[大同 (日本)|大同]]元年)以降にようやく完成したのではないかと推測されている。『古今和歌集』真名序には「昔平城天子、詔侍臣令撰万葉集」という言葉が載せられているのも、最終的な完成が家持の赦免後であったという事情を反映した記述とみられている<ref>伊藤博『萬葉集釋注』十一(集英社、1998年)P248.</ref><ref>朝比奈英夫『大伴家持研究-表現手法と歌巻編纂-』(塙書房、2019年)P243-249.</ref>。ただし、その場合には家持の遺稿を完成形にした"編者"がいたことになるが、その"編者"として名前が挙がっているのは五百枝王(臣籍降下後は[[春原五百枝]])である<ref name=yasuda/><ref>大森亮尚「志貴家の人々-五百枝王の生涯と万葉集成立をめぐって-」『山手国文論攷』6号(1984年)</ref><ref name=kimoto>。五百枝王は編纂への関与が指摘される前述の市原王の子で、藤原種継暗殺事件で家持との親交から自らも連座していること、現存の記録から確認できる「万葉」の語の最古の使用者(前述)であることが理由に挙げられるが、現時点ではいずれも状況証拠に過ぎず、今後別の"編者"が浮上する可能性も含めて検討すべき要素が多い
 
「万葉集」は平安中期より前の文献には登場しない。この理由については「延暦4年の事件で家持の家財が没収された。その中に家持の歌集があり、それを契機に本が世に出、やがて写本が書かれて有名になって、平安中期のころから『万葉集』が史料にみえるようになった」とする説<ref>[[上田正昭]](京都大学名誉教授)</ref> などがある。