「橘古那可智」の版間の差分

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天平21年([[749年]])4月、[[聖武天皇]]の[[東大寺]]行幸の折に[[正三位]]から[[従二位]]に昇進した<ref>『続日本紀』巻第十七、聖武天皇 天平21年4月1日条</ref>。その後、[[正二位]]に昇叙され、[[橘奈良麻呂の乱]]が起こった2ヵ月後の[[天平宝字]]元年([[757年]])閏8月、妹[[橘真都我|真都我]]や同族の[[橘綿裳]]らとともに橘氏を改めて広岡[[朝臣]][[カバネ|姓]]を賜った<ref>『続日本紀』巻第二十、孝謙天皇 天平勝宝9歳閏8月18日条</ref>。天平宝字3年([[759年]])7月に薨去したが、このときは「夫人正二位広岡朝臣古那可智」と記載されている<ref>『続日本紀』巻第二十二、廃帝 淳仁天皇 天平宝字3年7月5日条</ref>。聖武天皇との間に皇子女はいなかった。
 
[[仏教]]に篤く帰依し、天平14年([[742年]])2月16日に経櫃の座2具、韓櫃3合、案机1足などの調度を<ref>『寧楽遺文』391 - 393頁</ref>、また同18年([[746年]])5月16日に『大般若経』600巻・『大宝積経』120巻・『[[薬師経]]』49巻からなる経典769巻をそれぞれ[[法隆寺]]に施入した。この時、「[[正三位]]橘夫人」とある。また、署名者の官職名より[[天平勝宝]]元年([[749年]])7月から翌年3月までの間に作成されたと判断できる「人々進納銭注文」の中に、[[藤原豊成]]・[[藤原仲麻呂|仲麻呂]]・[[藤原乙麻呂|乙麻呂]]らと名を連ねて、橘夫人の進納銭2貫69文が見える<ref>木本、2021年、P145-147.</ref>。{{要出典|date=2021年10月|翌年の}}「知識寺銭収納注文」などに、中央・地方の関係のない各方面からの進納銭注文の中に橘夫人家が参加しており、これらの進納銭は大仏鋳造用の丹の費用にあてたものであろうと推定される。[[天平勝宝]]4年([[752年]])4月の[[東大寺盧舎那仏像|大仏]]開眼法会にも刀子・琥碧誦数を献じた。[[法隆寺]]の伝法堂は彼女の邸宅が移転されたものだといわれる。法隆寺には祖母の県犬養三千代が建立したとされる西円堂や叔母である光明皇后による寄進の記録が伝えられており、聖徳太子信仰や法隆寺を通じた祖母・叔母とのつながりがあったと考えられている<ref>木本、2021年、P145.</ref>
 
[[大和国]][[添上郡]]広岡([[奈良県]][[奈良市]]法蓮町)にある[[普光寺]]は、古那可智が聖武天皇のために建立したといわれている。同寺は天平勝宝5年(752年)に創建され、古那可智逝去の翌年である天平宝字4年(760年)に[[定額寺]]の待遇を受けている(『[[東大寺要録]]』)。橘奈良麻呂の乱後にも関わらず、古那可智ゆかりの寺院を当時の藤原仲麻呂政権が庇護したのは、彼女が宗家と異なり、叔母の光明皇后と共に藤原氏に近い立場を取っていたからと推測する説もある<ref>木本、2021年、P149-150.</ref>。