「魔王 (シューベルト)」の版間の差分

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『'''魔王'''』(まおう、{{lang-de-short|''Erlkönig''}})は、[[フランツ・ペーター・シューベルト]]の代表作で18歳の時に
作曲したリート([[歌曲]])。[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]]の[[魔王 (ゲーテ)|同名の詩]]に、少年期の作者が触発され、短時間のうちに歌曲と、伴奏を完成させた作品。[[ドイッチュ番号]]は328となっている。[[作品番号]]は1が与えられているが、これはシューベルトの作品のうち「最初に出版されたもの」を意味するに過ぎず、シューベルトはこの作品以前にすでに多くの歌曲やピアノ曲を完成させている。もっとも、出版までの間には紆余曲折があった。
 
== 作曲の経緯 ==
歌曲の王」の名をほしいままにしている。12歳若い[[ロベルト・シューマン]]は格調高い詩に絞って『[[詩人の恋]]』を作曲したが、シューベルトの天才的な作風が劣後するものではない。原詞の持つ世界を音楽的に再現する技術は詞の巧拙に左右されない。
[[File:Erlkoenig Schwind.jpg|thumb|[[:en:Moritz von Schwind|モーリッツ・フォン・シュヴィント]](1804-1871)による挿絵]]
シューベルトの重要な友人の1人である{{仮リンク|ヨーゼフ・フォン・シュパウン|en|Joseph von Spaun}}の回想によれば、この作品は[[1815年]][[11月16日]]にきわめて短時間のうちに成立したとする<ref name="fd81">[[#フィッシャー=ディースカウ]] p.81</ref>。
 
{{quotation|シューベルトはある本のなかの魔王の詩を朗読しながら、興奮していた。本を手に行ったり来たりしていたが。突然坐りこんだかと思うと、ごく短時間のうちにすばらしいバラードが紙に書きつけられた。シューベルトはピアノを持っていなかったので、われわれはこの楽譜を手に神学校へ走って行った。『魔王』はその日の夕方のうちに神学校で歌われ、興奮で迎えられた。(後略)|ヨーゼフ・フォン・シュパウン|<ref name="fd81"/>}}
 
シューベルトがピアノを持っていない件はシュパウンの勘違いであり、その他記憶の正確性はともかく、シューベルトが記譜の際に繰り返し部分を書き込まない癖があったことや比較的速筆であったことから、作品の書き上げが4時間程度であると[[バリトン]]歌手[[ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ]]は推測している<ref name="fd82">[[#フィッシャー=ディースカウ]] p.82</ref>。
 
== 内容・構成 ==
[[wikt:schnell|Schnell]](速く)
 
[[ト短調]]。変形した[[ロンド形式]]。4分の4拍子。序奏は右手g音の[[オクターヴ奏法]]で嵐の中の馬の疾走、更に左手の音階音型でしのびよる不気味さを演出し、また作品全体の基本リズムとなっている<ref name="fd83">[[#フィッシャー=ディースカウ]] p.83</ref>。後述の魔王の副主題が現れる段になっても、基本リズムはその間も崩されることはない<ref>[[#フィッシャー=ディースカウ]] pp.82-83</ref>。
 
ピアノ伴奏者には技術が求められる。その雄弁さや劇的さ、技術面の高さはもはや一介の「引き立て役」といった概念を突き抜け、リートにおける一つの主役としての地位が確立されるにいたった<ref>[[#フィッシャー=ディースカウ]] pp.83-84</ref>。
 
単独の歌手で、狡猾な魔王が言い寄る場面、家路に急ぐ父親、恐れおののく息子の3役を演じ分ける必要がある。意表をついた転調とたくまざる(伴奏音型の)単純さを旨とする作者の作曲技術がこれほど効果的に発揮された例はない。
 
副主題となる魔王の声の部分は、最初[[平行調]][[変ロ長調]]、2度目は[[ハ長調]]、3度目は[[ハ短調]]のナポリ調([[ナポリの六度]]の和音調)である[[変ニ長調]]で歌われ、徐々に調が上昇させることで、緊張感を高めていく。また、子供の声の部分で、[[ピアノ]]と歌声部が[[短二度]]で接触するところなど、きわめて斬新であり、シューベルトがコンヴィクトでこれを試演したとき、周りの者は師ヴェンツル・ルージチュカを除いて、誰も理解しなかった。ルージチュカは、この部分の処理の正統性を自らの実演で説いてみせたという逸話がある<ref>[[#フィッシャー=ディースカウ]] p.81,83</ref>。
 
終結部にいたってAs音が急に登場する([[ナポリの六度]])。一瞬の隙をついて主和音で終わる。詩の中で突如息子の死を宣告しているのと緊密に符合させている。この終結部は[[レチタティーヴォ]]風の処理がなされており、極めて印象的である。
 
なお、初稿では "Ich liebe dich, mich reizt deine schöne Gestalt" の部分にはフォルティッシモの記号が付されていたが、のちにシューベルト自身の手によってピアニッシモに修正されている<ref name="fd84">[[#フィッシャー=ディースカウ]] p.84</ref>。
 
== 出版までの経緯と評価 ==
シューベルトは初期[[ロマン派音楽|ロマン派]]の開拓者であり、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]にはない自由な転調、[[標題音楽]]の要素を巧みに取り入れた歌曲伴奏などで「歌曲の王」の名をほしいままにしている。12歳若い[[ロベルト・シューマン]]は格調高い詩に絞って『[[詩人の恋]]』を作曲したが、シューベルトの天才的な作風が劣後するものではない。原詞の持つ世界を音楽的に再現する技術は詞の巧拙に左右されない。
 
しかし、コンヴィクトでの試演の際に賛否両論の声が渦巻いたように、作品の真価はすぐには理解されなかった。成立の翌1816年4月、『魔王』の楽譜は他のゲーテの詞によるリートの譜とともに、シュパウンの仰々しい添え書き付きで[[ヴァイマル]]のゲーテのもとに送られたが、ゲーテの「音楽顧問」とも言うべき[[カール・フリードリヒ・ツェルター]]は他の作品とともにさわりに触れただけで軽くあしらい<ref>[[#フィッシャー=ディースカウ]] pp.101-102</ref>、ゲーテ本人もシューベルトの表現を嫌って[[ヨハン・フリードリヒ・ライヒャルト]]の手による同名作を高く評価するにいたった<ref name="i259">[[#井形]] p.259</ref>。1817年にはシュパウンから[[ブライトコプフ・ウント・ヘルテル]]に宛てて出版のために浄書が送られたが、ここでも相手にされなかった<ref>[[#フィッシャー=ディースカウ]] pp.141-142</ref>。ブライトコプフは拒絶の返事をシュパウンではなく[[フランツ・アントン・シューベルト]]に宛てて送った<ref name="fd142">[[#フィッシャー=ディースカウ]] p.142</ref>。フランツ・アントンが「私の名前を騙ってこのような駄作を出版しようとするような不届きな輩はけしからん」と言って憤激したのはこの時である<ref name="fd142"/>。一連のドタバタ劇は、先走って教職から離れていたシューベルトの鼻をへし折るには充分であり、身の立て方で意見が合わなかった父フランツ・テオドールとの間は一層悪いものとなった<ref name="fd142"/>。