「雲仙岳」の版間の差分

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[[Image:UnzenDevastation.jpg|thumb|220px|土石流に埋もれた深江町の民家(1991年)]]
 
特に大規模な人的被害をもたらしたのは1991年(平成3年)6月3日16時8分に発生した[[火砕流]]である<ref>{{Harvnb|廣井|1992|loc=はしがき}}</ref><ref name="杉本長井">{{Cite journalHarvnb|和書|author=杉本伸一, |長井大輔 |title=雲仙火山1991年6月3日の火砕流による人的被害 |url=https://doi.org/10.15017/13523 |journal=九州大学大学院理学研究院研究報告 地球惑星科学 |issn=13480545 |publisher=[[九州大学]]大学院理学研究院 |year=2009 |month=mar |volume=22 |issue=3 |pagespp=9-22 |naid=120001151176 |doi=10.15017/13523}}</ref><ref name=jscej.1997.567_33>{{Cite journal Harvnb|和書 |author=高橋和雄 |author2=藤|title=雲仙普賢岳の火山災害における情報伝達および避難対策 |year=1997 |journal=土木学会論文集 |issue=567 1992|pagespp=33-52 |url=https://hdl.handle.net/10069/29823 |doi=10.2208/jscej.1997.567_33}}</ref><ref>[http://dept.sophia.ac.jp/human/journalism/jgenzai06/01_miyamoto061003.pdf 参考文献「記者も犠牲になった雲仙普賢岳火砕流のname="教訓]" - 毎日新聞社より</ref><ref>{{Harvnb|香月|2012|p=16}}</ref>。
 
==== 直前の状況(6月2日まで) ====
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結果、'''[[戦後#日本|戦後]]初の大規模な火山災害'''として、43名の死者・行方不明者と9名の負傷者を出す惨事となった。死者の内訳は以下のとおりである。
 
* 報道関係者16名(アルバイト学生を含む。内訳は『毎日新聞』3人、[[テレビ長崎]]3人、[[日本テレビ]]2人、NHK2人、[[九州朝日放送]]2人、[[テレビ朝日]]1人、『[[日本経済新聞]]』1人、『[[読売新聞]]』1人、フリー1人<ref>{{Cite web Harvnb|宮本|2006|p=4}}</ref>)
| url = https://dept.sophia.ac.jp/human/journalism/jgenzai06/01_miyamoto061003.pdf
| title = ジャーナリズムの現在II「災害と報道」第1回「記者も犠牲になった―雲仙普賢岳・火砕流の教訓」
| author = 宮本勝行
| accessdate = 2020-11-25 }}</ref>)
* 火山学者ら3名([[クラフト夫妻]]と案内役であった[[アメリカ地質調査所]]の[[ハリー・グリッケン]])
* 避難誘導にあたっていた警察官2名、警戒にあたっていた消防団員12名
* タクシー運転手4名{{efn|報道関係者からの傭車により独断で避難できなかったとみられる。}}、市議会選挙ポスター掲示板を撤去作業中だった作業員2名、農作業中の住民4名
 
死亡した『読売新聞』のカメラマンは、愛機の[[ニコンF4]]を抱えるようにして亡くなっており、カメラからは熱により変色していたものの火砕流の写真が7コマ記録されていた<ref>[http://www.geocities.co.jp/MotorCity/8810/densetu/f4.html ニコンF4伝説]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20170706230249/{{Wayback |url=https://info.yomiuri.co.jp/media/yomiuri/feature/scoopphoto.html |title=スクープ写真の記録]、 |date=20170706230249}} 読売新聞</ref>。
なお、これら多数の死傷者が出た「定点」付近は全て[[避難勧告]]内に収まっていた。
 
2005年(平成17年)6月、火砕流で死亡した日本テレビのカメラマンが使用していた業務用ビデオカメラが発見された。カメラは火砕流による高熱で溶解し高度に破損していたが、内部のテープを取り出し、慎重にはがして修復することに成功した。ビデオには、最初の火砕流の様子を伝える記者たちの様子や、二番目の大火砕流の接近に気付かないまま、「定点」が襲来される直前まで取材を続ける記者や、避難を広報するパトカーの姿や音声が記録されていた{{efn|映像は、カメラマンが火砕流のものと思われる音に気付いて「何の音? やばいな」と言って普賢岳方向へカメラを向けたところで終わっている。}}。この映像は、同年10月16日に『[[NNNドキュメント]]'05 解かれた封印 雲仙大火砕流378秒の遺言』として放送され、現在では溶けたカメラと共に雲仙岳災害記念館(島原市)に展示されている。
 
この日、山麓には(火山噴出物が混じって)黒く濁った雨が降った<ref name="読売20210604">緑の雲仙へ植樹3.3万本 1万人参加「復興のシンボルに」『読売新聞』朝刊2021年6月4日(社会面)</ref>。
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===== 報道関係者 =====
5月24日に発生した最初の火砕流は衝撃的だったものの、当時の報道関係者の認識は「かなりの高温ではあるが、熱風(火砕サージ)を伴うものとは知らず、車で逃げ切れるだろうと思っていた」「熱いと知っていたが焼け焦げるまでとは知らなかった」という程度であった<ref name="教訓">[http://dept.sophia.ac.jp/human/journalism/jgenzai06/01_miyamoto061003.pdf 毎日新聞社「記者も犠牲になった雲仙普賢岳火砕流の教訓」] 12版{{Harvnb|宮本|2006|p=9}}</ref>。
 
これは翌25日の気象庁臨時火山情報にて火山学者や専門家が議論の末、「'''24日の崩落は小規模な火砕流'''」と発表したものの、'''住民の混乱を恐れたため火砕流の危険性について具体的な言及が一切なく'''、{{efn|当時の火山学者が火砕流災害として念頭に置いていたのは、西暦79年の[[ヴェスヴィオ]]火山噴火による[[ポンペイ]]の消滅、そして1902年の[[プレー山]]の大噴火だった。彼らは「火砕流」という言葉が、住民にこれらの大規模災害を想起させ、混乱を起こすことを恐れたのである。そのため「火砕流」ではなく「岩屑流」(がんせつりゅう)として発表すべきという意見もあった。また25日の臨時火山情報では、当初、火砕流の説明部分に「時速100キロ内外の高速度」という文言が含まれていたが、後に「雲仙ではこれほどの速度を持っているとは思われない」として原文から削除された<ref name="教訓"/><ref>{{Harvnb|廣井|1992|pp=12-15}}</ref>。}}{{efn|25日の臨時火山情報の発表直後、東京の気象庁記者クラブで解説会見が行われた。その要旨は以下の通りである。「雲仙岳の火砕流は溶岩ドームがガサガサに崩れた状態で起きているので、一番心配な『鉄砲玉のように一気に噴き出す火砕流』にはならない可能性のほうが強い。帽子(ドーム)が取れているのだから突拍子のない事は起きないと思う。また今回の火砕流は流れ出た当時、火事が起きていないことからそれほど高温のものではないと思われる。火砕流は桜島ではいつも出ている。浅間山でも噴火のたびに観測されており、そんなに珍しいものではない。」「火砕流というと大きく捉えられそうだが、オーバーに捉えないでほしい。」<ref>毎日新聞社「記者も犠牲になった雲仙普賢岳火砕流の name="教訓」12版から抜粋)<" /ref>}}報道関係者には本来の「'''地質学的に小規模'''」の意味が「'''人的被害を出さない程度の規模'''」と受け取られたことによる<ref name=jscej.1997.567_33 />。5月26日には水無川上流の砂防ダム工事関係者が火砕流により腕に火傷を負ったが、「火傷程度で済むならば長袖のシャツを着ておれば大丈夫」という噂が流れるなど、危険性について情報が広まらなかった。さらに5月25日から6月2日までの火砕流の発生回数は小規模なものを含めて165回に達したが、その中で比較的規模の大きな火砕流であっても全て水無川上流の砂防ダム付近でせき止められていた<ref>[https://www.gsj.jp/data/openfile/no0469/0104.mov 動画:5月29日 北上木場町の農業研修所前から撮影された比較的規模の大きな火砕流]。6月2日以前の火砕流では最大規模</ref><ref>[https://www.gsj.jp/data/openfile/no0469/indexJ.html#1991.E5.B9.B46.E6.9C.881.E6.97.A5 地質調査総合センター研究資料集No.469「宮城・川辺・高田・阪口・宝田 (2007) 雲仙ビデオクリップ集」] - [[産業技術総合研究所]]地質調査総合センター</ref>。こうしたことから報道関係者に火砕流への馴れが生じた。
 
さらに梅雨入りしたことで報道関係者の関心は火砕流から土石流に向けられ始めていた。報道関係者の中には火砕流と土石流を混同している者も多く、さらに彼らの大半が「'''火砕流は土石流同様に水無川に沿って来るため、避難勧告地域内ではあるが水無川から200m離れた上、40mの標高差がある定点が襲われることはない'''」と認識していた。こうした「定点」への過度の安心感も手伝って、この一帯への取材が過熱することになった<ref name="教訓"/>。
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これは相次ぐ火砕流によって水無川上流に火山灰や土砂が堆積しつつあったこと、さらに梅雨が迫っていたことから、島原市の防災関係者は火砕流による直接災害よりも土石流を強く警戒していたことによる。加えて6月2日には一部のテレビ局関係者が避難して無人となった人家に不法侵入しコンセントを借用したことが発覚したため、上木場地区消防団は南上木場地区の消防詰所ではなく、水無川を見下ろす高台にあり、かつ「定点」に近く報道機関の行動を把握しやすい北上木場地区の農業研修所にて土石流発生を監視していた<ref>{{Harvnb|廣井|1992|pp=36-39}}</ref>。6月2日までは5月29日を上回る規模の火砕流が発生しなかったため、「火砕流はこの(5月29日に到達した溶岩ドームから東方約3.0&nbsp;km)辺りで止まるだろう」とする見方が拡がり、溶岩ドームから東方約4.5kmに位置する農業研修所が火砕流に伴う火砕サージに襲われる懸念を抱いた消防団員はほとんどいなかった<ref>{{Harvnb|廣井|1992|pp=21-29}}</ref>。
 
しかし地元の防災対策協議会では、消防団は南上木場地区の消防詰所で土石流監視を行っているものと認識されており、既に農業研修所に移動していたことは知られていなかった。そのため大火砕流が発生する1時間前、防災対策協議会は天候が悪く西風で視界が悪化したことから注意するよう消防団に伝えようとしたが連絡が取れなかった<ref>九州大学大学院理学研究院研究報告「[https://hdl.handle.net/2324/13523 雲仙火山1991年6月3日の火砕流による人的被害]」『地球惑星科学』22(3) p9-22, {{doi|10.15017/13523name="杉本長井" }}</ref>。
 
大火砕流の直前には、気象庁雲仙岳[[測候所]]が「'''非常に危険な状態になった。(避難勧告地域から報道陣や消防団を)避難させてほしい'''」と長崎県島原振興局に電話通報しており、情報を受けた長崎県警は上木場地区にいた警察官13名に避難指示を出すと同時に、誰かいれば避難誘導も行うよう連絡した。その結果、ほとんどの警察官は上木場地区から避難したものの、[[パトカー]]で巡回していた警察官2名は報道陣らの避難誘導を行うために「定点」に向かった。この時、北上木場地区には土石流で流され水無川の橋などに詰まってしまった市議会議員選挙のポスター掲示板について、島原市から二次災害防止のため撤去を委託された作業員2名もいた。
 
一方、雲仙岳測候所の情報は、島原市と島原広域消防団本部を経て農業研修所の上木場地区消防団にも電話(口頭)で伝えられたが、その時点で情報は「'''山の様子がおかしい。注意するように'''」という内容に変質しており、北上木場地区が危機的な状況であり緊急避難を要することが伝わらなかった。火砕流の危険を知らせた雲仙岳測候所と土石流への警戒を強めていた島原市、消防関係者との間には危険度に関する認識のズレがあったことも情報が歪んだ要因であった<ref>{{Harvnb|廣井|1992|pp=59-64}}</ref><ref>九州大学「雲仙火山1991年6月3日の火砕流による人的被害」{{Harvnb|杉本|長井|2009|p.=17}}</ref>。
 
テレビ局関係者によるコンセントの無断借用がなかった場合、消防団員が農業研修所に立ち入らなかったかどうかは不明である。しかし住人の中には「マスコミのせいで消防団員が犠牲になった」とする声が多々あり、その感情が長期間残ることになった<ref>{{Harvnb|廣井|1992|pp=38-39}}</ref>。
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* {{Cite book |和書 |author=[[廣井脩]] |coauthors=吉井博明、山本康正、木村拓郎、中村功、松田美佐 |year=1992 |title=平成3年雲仙岳噴火における災害情報の伝達と住民の対応 |publisher=[[東京大学]] |url=http://cidir-db.iii.u-tokyo.ac.jp/hiroi/pdf/report/saigairep/saigairep037.pdf |format=PDF |ref={{SfnRef|廣井|1992}}}}
* {{Cite book |和書 |editor=[[農林水産省]][[農林水産政策研究所]] 編 |year=2012 |title=過去の復興事例等の分析による東日本大震災復興への示唆 農漁業の再編と集落コミュニティの再生に向けて |publisher=農林水産省農林水産政策研究所 |series=震災対応特別プロジェクト研究資料 第1号 |url=https://www.maff.go.jp/primaff/kanko/project/attach/pdf/120930_24sinsai1_01.pdf |format=PDF |chapter=香月敏孝「雲仙普賢岳の噴火」 |pages=15-23 |id={{国立国会図書館書誌ID|024304543}} |ref={{SfnRef|香月|2012}}}}
* {{Cite journal|和書|author=杉本伸一 |author2=長井大輔 |title=雲仙火山1991年6月3日の火砕流による人的被害 |url=https://doi.org/10.15017/13523 |journal=九州大学大学院理学研究院研究報告 地球惑星科学 |issn=13480545 |publisher=[[九州大学]]大学院理学研究院 |year=2009 |month=mar |volume=22 |issue=3 |pages=9-22 |naid=120001151176 |doi=10.15017/13523 |ref={{SfnRef|杉本|長井|2009}}}}
* {{Cite web | author = 宮本勝行 |date=2006-10-30| url = https://dept.sophia.ac.jp/human/journalism/jgenzai06/01_miyamoto061003.pdf |format=PDF | title = ジャーナリズムの現在II「災害と報道」第1回「記者も犠牲になった―雲仙普賢岳・火砕流の教訓」 |publisher=[[上智大学]]文学部新聞学科 | accessdate = 2020-11-25 |ref={{SfnRef|宮本|2006}}}}
* [[国立天文台]]編『[[理科年表]] 平成20年』[[丸善]]、2007年、ISBN 978-4-621-07902-7