「佐久間信盛」の版間の差分

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[[天正]]元年([[1573年]])4月、信長の名代として[[織田信広]]、[[細川幽斎|細川藤孝]]と共に[[二条御所]]に派遣され、将軍・[[足利義昭]]と和睦の交渉を行った{{Sfn|久野|2017|p=218}}。同月、柴田勝家、[[丹羽長秀]]、[[蒲生賢秀]]と共に、六角義治が籠城する[[鯰江城]]攻めを命じられ、四方に付城を築いて攻囲した。
 
8月、[[一乗谷城の戦い]]の直前、戦場から離脱する[[朝倉義景]]軍の追撃を怠った織田家臣団の面々は信長の叱責を受ける。その際、信盛は思わず涙を流しながら「さ様に仰せられ候共、我々程の内の者はもたれ間敷(そうは言われましても我々のような優秀な家臣団をお持ちにはなれますまい)」と口答えをしてしまった為に信長をさらに怒らせ、所領没収の厳罰を下されそうになるが、その場に居合わせた[[明智光秀]]、[[前田利家]]らの仲裁で、など未だ畿内で強い力を持っていた反織田方の[[六角氏]]や[[三好氏]]を年内中に打倒する事を条件に、猶予を与えられる。
その後は六角氏の[[菩提寺城]]を攻略、続いて六角義賢が籠る[[石部城]]を包囲するなど名誉回復の為に尽力に戦に赴き、11月には第一次織田包囲網が瓦解し逃亡した[[足利義昭]]を匿った[[河内国|河内]][[若江城]]主・[[三好義継]]を攻め、自害に追い込む戦果を上げ、織田家の畿内制圧に貢献した([[若江城の戦い]])事から、先の失言の一件は一先ず免ぜられる事になったものの、信長からは相当根に持たれる事となり、後に突きつけられた折檻状の19ヶ条の中に上記の一件を蒸し返されている。