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|確立形態5 = フェルナンド・ポー県と共に赤道ギニアとして独立
|確立年月日5 = [[1968年]][[10月12日]]
|通貨 = [[CFAフラン]]([[ペセタ]]、旧スペイン領時代)
|通貨コード = XAF
|通貨追記 =
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== 歴史 ==
リオ・ムニは[[1778年]]にエルパルド条約で[[ポルトガル]]から[[スペイン]]に割譲され[[ビオコ島|フェルナンド・ポー島]](後のビオコ島)と[[アンノボン島]]と共に{{仮リンク|スペイン領ギニア (スペイン帝国)|es|Guinea Española|en|Spanish Guinea|label=スペイン領ギニア}}の一部となった。[[1885年]]にスペイン保護領にもなり、スペインはリオ・ムニを他の海外[[植民地]]での奴隷を集める場所にすることをもくろんだが、スペイン人の入植者は[[黄熱病]]のために死に、リオ・ムニからはスペイン人はほとんどいなくなった。再入植以降は[[カカオ]]と[[木材]]が主な産品となった。

[[1900年]]に[[フランス]]人により[[バタ]]の都市が建設された。[[1926年]]にスペイン領ギニアはさらにリオ・ムニ、フェルナン・ド・ポー島、[[アンノボン島]]、[[大エロベイ島]]、[[小エロベイ島]]、[[コリスコ島]]および周辺の島々により形成された。

[[File:Coat of Arms of the Spanish Province of Río Muni.svg|thumb|left|100 px|スペイン領ギニア時代のリオ・ムニ県の紋章]]
[[1959年]]にスペイン領ギニアのリオ・ムニとフェルナンド・ポー島はリオ・ムニ県とフェルナンド・ポー県の2つの[[:es:Provincias españolas en África|スペインの海外県]]にさらに分割され、リオ・ムニ県はスペインの54番の県となる。[[1960年]]9月1日にリオ・ムニ県の議会がバタ市にて発足し、リオ・ムニ県の議会選挙で初代リオ・ムニ県の議会議長及び知事に[[ジョゼ・ベルドゥ]](José Vedú)が就任。[[1963年]]にリオ・ムニ県はフェルナンド・ポー県と共に[[フランシスコ・フランコ]]政権のスペイン政府から、自治権が与えられ自治政府を樹立した。[[1964年]]から[[1968年]]までリオ・ムニ県とフェルナンド・ポー県の2つのスペイン海外県は自治権が与えられ、別々の地位を維持しながら、ある程度の内部自治を備えた自治組織となっていた。

[[1968年]]にスペイン領ギニアの自治県であるリオ・ムニ県とフェルナンド・ポー県は統合したまま赤道ギニア共和国としてスペインから独立した。 しかし、独立した翌年の[[1969年]]3月から4月にリオ・ムニで深刻な政治的混乱が発生した。
 
== 産業 ==
[[コーヒー]]が主産物。他、豊かな[[木材]]資源
 
== 民族 ==