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=== ロシアの南下と日露戦争 ===
[[File:일본과 러시아에 압사당하는 한국.png|thumb|日露戦争の風刺画]]
ロシア帝国は[[南下政策]]の一環として、[[東アジア]]の領土拡張を推進していた。日本が日清戦争で勝利し、下関条約で遼東半島を割譲されると、ロシアはフランス、ドイツと共同で干渉を行って、遼東半島を返還させた([[三国干渉]])。同時にロシアは清と[[露清密約]]を結び、東清鉄道の敷設など満州への権益を確保、1898年には遼東半島の[[旅順港]]と[[大連湾]]、[[威海衛]]を租借して植民地化を進めていった。また、[[露館播遷]]以降は朝鮮半島にも進出を始めていた。1900年には[[義和団の乱]]に乗じてロシアが[[満州]]を軍事占領し([[満洲還付条約]])、ロシアの南下政策に対して、日本は満州での[[ロシア帝国]]の優越権朝鮮半島での[[日本]]の優越権を相互に認めあう[[満韓交換論]]を主張する[[元老]]の[[伊藤博文]]と、ロシアを信用せずに欧米列強と協力して対抗するべきと主張する元老の[[山縣有朋]]が対立してい。1901年、[[第4次伊藤内閣]]を退けて、山縣の側近である桂太郎[[第1次桂内閣]]を組閣すると、桂は内閣の目標の中に「日英同盟の締結」と「韓国の保護国化」を掲げ<ref>{{Cite book|和書|title=公爵桂太郎伝. 乾巻|year=1917|publisher=故桂公爵記念事業会|pages=995-996|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1874453/648|editor=徳富猪一郎編}}</ref>、1902年に[[日英同盟]]が成立すると朝鮮半島を巡るロシアとの軍事的な緊張が高まった。
 
[[1904年]](明治37年)1月21日、韓国政府は局外中立を宣言して、日露間の軍事衝突に関わることを避けようとしたが、日本は大韓帝国の独立と領土保全および皇室の安全を保障するかわりに、韓国領土内における日本軍の行動の自由と、軍略上必要な土地の収用を韓国に承認させた([[日韓議定書]]){{efn|日韓議定書 第四条「第三国ノ侵害ニ依リ若クハ内乱ノ為メ大韓帝国ノ皇室ノ安寧或ハ領土ノ保全ニ危険アル場合ハ大日本帝国政府ハ速ニ臨機必要ノ措置ヲ取ルヘシ。而シテ大韓帝 国政府ハ右大日本帝国ノ行動ヲ容易ナラシムル為メ十分便宜ヲ与フル事」}}。8月22日には[[第一次日韓協約]]を締結して、財政顧問に[[目賀田種太郎]]、外交顧問に日本の外務省に勤務していたアメリカ人の[[ダーハム・W・スティーブンス]]を推薦して、韓国政府内への影響力を強めた。[[1904年]](明治37年)9月5日、[[日露戦争]]が開戦すると、高宗はロシア皇帝に密使を送ってロシアへの協力を約束したが、韓国国民はロシアの排除と日本の勝利を支持しており、政府と国民に大きな乖離が生まれた<ref>[http://www.nids.mod.go.jp/event/forum/pdf/2004/forum_j2004_13.pdf 李泰鎮「韓国近現代史認識の歪曲と錯乱」 - 都留文科大学]</ref>。
 
=== 日露戦争後の朝鮮半島を巡る国際情勢 ===
1901年6月成立した第一次[[桂太郎]]内閣は、その当初から韓国[[保護国]]化を目標としていた。「公爵桂太郎伝」では次のように述べる。<blockquote>公が内閣を組織するに当り、先づ内治外交に対する大方針を確定せり。其の政綱を掲ぐれば、大略左の如し。
 
一 財政上の基礎を鞏固にし、商工業の発達を謀る事。
 
一 海軍は八万噸を限度とし之を拡張する事。
 
一 独力極東の大局を担当するは困難なるを以て、機会を見て欧州の一国(英国)と或種の協約を締結するに注意する事。
 
一 '''韓国は我が保護国たるの目的を達する事'''。<ref>{{Cite book|和書|title=公爵桂太郎伝. 乾巻|year=1917|publisher=故桂公爵記念事業会|pages=995-996|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1874453/648|editor=徳富猪一郎編}}</ref></blockquote>1905年4月8日、第一次桂太郎内閣は「韓国保護権確立の件」を閣議決定した<ref>{{Cite web|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/38-1.html|title=日本外交文書デジタルアーカイブ第38巻第1冊(明治38年/1905年)「11 日韓協約締結並統監府設置ノ件附在韓各国公使館撤廃ノ件」519頁「ニ五〇 韓国保護権確立ノ件」|accessdate=2021年9月1日|publisher=外務省外交史料館|page=}}</ref>。その内容は「韓国の対外関係は全然帝国に於て之を担任し」「韓国は直接に外国と条約を締結するを得ざること」などであり、つまり韓国の外交権を奪うという内容であった。
 
桂内閣はこの方針に沿って列強への根回しを始め、英・米・露の同意を取り付けた。(→[[第二次日韓協約#日本の韓国保護国化方針と列強に対する承認交渉]])
 
英国の[[ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第5代ランズダウン侯爵)|ランズダウン]]外相はロシアの南下を阻止するため、韓国が自主独立の国家として存在することを望んでおり、ジョーダン(John N. Jordan)駐韓公使に対して韓国の支援を行うように指示を行った。ジョーダンは韓国の立場になって日露の干渉を排除するために尽力していたが、日露戦争の終結時になると、ジョーダンはマクドナルド(Claude M. MacDonald)駐日公使に対して「日清戦争後に独立した韓国の状況を見ていると、韓国の政治家に統治能力がないため、此処10年の韓国は名目上の独立国に過ぎず、このまま独立国として維持されるのは困難である」と見解を示すようになる。マクドナルドもジョーダンに同意し、韓国は日本に支配されることが韓国人自身のためにもなるという結論をイギリス本国に報告した。ランズダウン、[[アーサー・バルフォア|バルフォア]]首相は2人の見解を了承し、第二次日英同盟では日本が韓国を保護国にすることが承認された<ref>片山慶隆, 「[https://hdl.handle.net/10086/16018 韓国保護国化をめぐる国際関係史1902-05 : イギリスの対韓・対日政策を中心として]」 ワーキングペーパー 21世紀COEプログラム 『CNER Discussion Paper ; No.008』 p.19, 2005年, Centre for New European Research, 21st Century COE Programme, Hitotsubashi University.</ref>。
 
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=== 第二次日韓協約とハーグ密使事件 ===
1905年4月8日、第一次桂太郎内閣は「韓国保護権確立の件」を閣議決定した<ref>{{Cite web|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/38-1.html|title=日本外交文書デジタルアーカイブ第38巻第1冊(明治38年/1905年)「11 日韓協約締結並統監府設置ノ件附在韓各国公使館撤廃ノ件」519頁「ニ五〇 韓国保護権確立ノ件」|accessdate=2021年9月1日|publisher=外務省外交史料館|page=}}</ref>。その内容は「韓国の対外関係は全然帝国に於て之を担任し」「韓国は直接に外国と条約を締結するを得ざること」などであり、つまり韓国の外交権を奪うという内容であった。また、ロシアの後ろ盾をなくした高宗は、韓国皇室の利益を保全するため日韓協約の締結を推進しており{{efn|「日省録」や「承政院日記」などの分析から高宗は日韓保護条約に賛成しており、批判的だった大臣たちの意見を却下していたとする研究結果も、[[2001年]](平成13年)に[[ハーバード大学]]アジアセンター主催で開かれた国際学術会議で出されている<ref>{{Cite book|和書|author=[[原田環]]|editor=[[鄭大均]]・[[古田博司]]編|year=2006|month=8|title=韓国・北朝鮮の嘘を見破る 近現代史の争点30|series=文春新書|publisher=文藝春秋|isbn=4-16-660520-8|chapter=「京城は差別語だ」と言われたら|pages=pp. 261-278|ref=原田2006}})</ref><ref>{{Cite journal |和書|author=邊英浩 |title=翻訳 李泰鎮「1905年の『保護条約』に対する高宗皇帝の協商指示説批判」(上) |journal=都留文科大学研究紀要 |issn=02863774 |publisher=都留文科大学 |year=2007 |volume=66 |pages=153-169 |naid=110007055978 |url=http://trail.tsuru.ac.jp/dspace/handle/trair/316 }}</ref><ref>[[原田環]] 第2次日韓協約をめぐる大韓帝国の動向 [http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/asorder/meetings12-02.html]</ref>。}}、[[1905年]](明治38年)11月、[[第二次日韓協約]](大韓帝国では乙巳保護条約)が締結される。この協約によって、韓国の皇室は保持されたが、韓国の外交権は日本に接収されることとなり、事実上、韓国は日本の保護国となった。12月には、韓国軍の指揮権を有する行政府である[[統監府]]が設置され、[[伊藤博文]]が初代統監に就任した。
韓国側では日本による保護国化(外交権はく奪など)を警戒し、列強に対する働きかける動きなど反対・抵抗の動きを見せた(→[[第二次日韓協約#韓国側の反対・排日の動き]])が、伊藤博文が日本側代表として渡韓し林権助公使、長谷川好道韓国駐箚軍司令官らとともに韓国皇帝・重臣らを威圧する、あるいは軍隊を韓国王宮に入れるなど強圧的な交渉を行い(→[[第二次日韓協約#交渉過程]])、韓国側も保護国化を受け入れた。第二次日韓協約締結後は韓国で抗議の動きが起こり(→[[第二次日韓協約#韓国の嘆き・抗議・自決・排日]])、韓国皇帝としても締結直後から繰り返し列強に対して条約は強制されたもので無効だと訴えた(→[[第二次日韓協約#列強への訴え]])。
 
ロシアの後ろ盾をなくした高宗は、韓国皇室の利益を保全するため日韓協約の締結を推進し{{efn|「日省録」や「承政院日記」などの分析から高宗は日韓保護条約に賛成しており、批判的だった大臣たちの意見を却下していたとする研究結果も、[[2001年]](平成13年)に[[ハーバード大学]]アジアセンター主催で開かれた国際学術会議で出されている<ref>{{Cite book|和書|author=[[原田環]]|editor=[[鄭大均]]・[[古田博司]]編|year=2006|month=8|title=韓国・北朝鮮の嘘を見破る 近現代史の争点30|series=文春新書|publisher=文藝春秋|isbn=4-16-660520-8|chapter=「京城は差別語だ」と言われたら|pages=pp. 261-278|ref=原田2006}})</ref><ref>{{Cite journal |和書|author=邊英浩 |title=翻訳 李泰鎮「1905年の『保護条約』に対する高宗皇帝の協商指示説批判」(上) |journal=都留文科大学研究紀要 |issn=02863774 |publisher=都留文科大学 |year=2007 |volume=66 |pages=153-169 |naid=110007055978 |url=http://trail.tsuru.ac.jp/dspace/handle/trair/316 }}</ref><ref>[[原田環]] 第2次日韓協約をめぐる大韓帝国の動向 [http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/asorder/meetings12-02.html]</ref>。}}、[[1905年]](明治38年)11月、[[第二次日韓協約]](大韓帝国では乙巳保護条約)が締結される。この協約によって、韓国の皇室は保持されたが、韓国の外交権は日本に接収されることとなり、事実上、韓国は日本の保護国となった。12月には、韓国軍の指揮権を有する行政府である[[統監府]]が設置され、[[伊藤博文]]が初代統監に就任した。
 
実権を失った高宗は、三国干渉で日本が遼東半島の主権を断念したように、欧米列強の干渉で第二次日韓協約を撤回させて、日本から外交権の回復することを画策し、[[1907年]](明治40年)6月15日からオランダのハーグで開催された第2回万国平和会議に、日本による韓国支配の糾弾するため密使を派遣した。しかし、この会議は1889年に定められた[[国際紛争平和的処理条約]]の批准国による国際協調を調整する会議であり、締約国ではない大韓帝国は参加することはできず、また、第二次日韓協約によりに韓国の外交権が失われていることを理由にいずれの国からも接触を拒否され、実質的な成果を挙げることなく失敗に終わった。([[ハーグ密使事件]])