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'''比志島国貞'''(ひしじま くにさだ、[[天文 (元号)|天文]]19年([[1550年]]) - [[元和 (日本)|元和]]6年[[4月3日 (旧暦)|4月3日]]([[1620年]][[5月5日]]))は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[薩摩国]][[島津氏]]の[[家老]]。[[紀伊守]]、彦四郎、[[宮内少輔]]。父は[[比志島国真]]。子は[[比志島国隆]]。
 
==生涯==
[[天正]]年中に市来[[地頭]]となる。天正6年([[1578年]])の[[大友氏]]による[[日向国|日向]]侵攻の際には、[[高城 (新納院)|高城]]加勢した。天正10年(1582年)には御使として弟の彦八郎とともに[[肥前国|肥前]][[有馬]]へ遣わされた。天正14年(1586年)の[[岩屋城の戦い]]の時に、御供として[[八代]]に向かった。天正15年(1587年)4月17日、[[目白坂]]に御供として向かった。天正16年(1588年)、[[島津義久]]の初[[上洛]]に供奉した。[[慶長]]元年(1596年)には、義久の[[家老]]となる。慶長5年(1600年)、日向[[高岡町 (宮崎県)|高岡]]の[[外城制|外城]]([[天ヶ城]])に召された際、高岡地頭を仰せ付けられている<ref>[https://www.city.miyazaki.miyazaki.jp/culture/art/2162.html 「市指定史跡-130.天ヶ城址-」]宮崎市公式HP</ref>
 
慶長15年(1610年)5月2日、島津家久([[島津忠恒]])が[[中山王]]を率いて[[駿河国|駿河]]・[[江戸]]へ[[参勤]]する際に供奉した。同年8月6日、[[駿府]]に到着して[[徳川家康]]にお目を済ませ、20日には駿河を発って25日に江戸に着いた。9月12日に外城し、[[徳川秀忠]]へお目の謁を首尾よく済ませた。
 
元和6年(1620年)4月3日卒去。71歳。尭安源舜居士。[[寛永]]5年(1628年)、家久の命により、国貞のために源舜庵が建立された。墓は[[南林寺]]にある。寛永11年(1634年)12月晦日、家久が「忠義の老臣」を五人撰んだが、そのときの一人に国貞の名が挙がっている。
 
==脚注==
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==参考文献==