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{{基礎情報 中国順承郡王
'''李 神符'''(り しんぷ、[[579年]] - [[651年]])は、[[中国]]の[[唐]]の[[宗室]]。鄭孝王李亮([[李虎]]の八男)の子。唐の高祖[[李淵]]の従弟にあたる。[[字]]は神符。
|名=李神符
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|称号=襄邑郡王
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|説明=
|王朝=[[唐]]
|家名=隴西李氏
|在位期間=
|全名=
|字=神符
|小字=
|官職=開府儀同三司
|諡号=恭王
|生年=[[大象 (北周)|大象]]元年([[579年]])
|生地=
|没年=[[永徽]]2年([[651年]])
|没地=
|父親=[[李亮 (隋)|李亮]]
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|子女=
|注釈=
}}
'''李 神符'''(り しんぷ、[[579年]] - [[651年]])は、[[中国]]の[[唐]]の[[宗室]]。鄭孝王李亮([[李虎]]の八男)の子。唐の高祖[[李淵]]の従弟にあたる。[[字]]は神符。
 
==経歴 生涯 ==
{{仮リンク|李亮 (隋)|label=李亮|zh|李亮 (隋朝)}}([[李虎]]の八男)の次男。幼くして孤児となり、兄の[[李神通]]に謹事した。[[617年]]李淵が[[太原市|太原]]で起兵したとき、神符は[[長安]]におり、いた李神符は[[衛玄|衛文昇]]に逮捕された。長安が平定されると、[[光禄大夫]]に任られ、安吉郡公に封られた。[[618年]]唐が建国さてられると、{{仮リンク|襄邑郡|zh|襄邑郡}}王に封られた。[[621年]]、[[并州]][[都総管|総管]]に転じた。
 
[[東突厥|突厥]]の[[頡利]]可汗]]が辺境を侵すと、神符は出兵して[[汾水]]の東で突厥と戦い、勝利を挙げた。また沙河の北で戦い、乙利達官を捕らえ、可汗の乗馬と鎧を戦利品としてた。このため{{仮リンク|太府寺|label=太府|zh|太府寺}}卿となった。[[626年]]、[[揚州 (古代)|揚州]]大都督となり、揚州の州府を[[丹陽市|丹陽]]から江都の故郡に移転した。[[貞観 (唐)|貞観]]初年に[[宗正]]卿となったが、足の病のため辞職し、[[太宗 (唐)|太宗]]の見舞いを受けて羊酒を賜った。小輿に乗って紫微殿に入ることを許可された。まもなく開府[[儀同三司]]となった。[[651年]]世を去り、[[司空]]・[[荊州]][[都督]]の位を追贈され、[[{{仮リンク|献陵]] (唐)|label=献陵|zh|唐獻陵}}に陪葬された。[[諡]]を恭といっされた。
 
== 子女 ==
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{{DEFAULTSORT:り しんふ}}
[[Category:隋代の人物]]
[[Category:唐の皇族|しんふ]]
[[Category:579年生]]