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{{基礎情報 中国順承郡王
'''完顔 宗秀'''(かんがん そうしゅう、生年不詳 - [[1157年]])は、[[金 (王朝)|金]]の[[皇族]]。[[字]]は実甫。女真名は撕里忽。
|名=完顔宗秀
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|称号=広平郡王
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|説明=
|王朝=[[金 (王朝)|金]]
|家名=完顔氏
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|全名=廝里忽
|字=実甫
|小字=
|官職=昭義軍節度使
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|生年=[[収国]]2年([[1116年]])
|生地=
|没年=[[正隆]]2年([[1157年]])
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|父親=[[烏野|完顔勗]]
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}}
'''完顔 宗秀'''(かんがん そうしゅう、生年不詳 - [[1157年]])は、[[金 (王朝)|金]]の[[皇族]]。[[字]]は実甫。女真名は'''廝里忽'''
 
== 経歴生涯 ==
[[{{仮リンク|烏野|完顔label=]]([[|zh|顔盈歌]]の子)颜勗}}の子として生まれた。[[完顔盈歌|盈歌]]の孫。[[契丹文字]]に通じ、[[経書]]や[[歴史書|史書]]を渉猟し、騎射を得意とした。[[蒲魯虎]](|宗磐]]・[[訛魯観]](|宗雋]]の乱の鎮圧に参加して、定遠大将軍の号を受け、宗磐の世襲[[猛安・謀克|猛安]]の地位を与えられた。
 
[[1125年]]([[天会 (金)|天会]]3年([[1125年]])、[[斡啜|宗弼]](宗弼)が[[北宋|宋]]の都[[開封|開封]]を攻めて降伏させ、[[宗]]と太上皇の[[宗]]の2帝を捕らえると、宗秀は[[海陵王|完顔亮]]とともに軍前に使者として赴いた。[[宋 (王朝)|宋岳飛]]の将軍の率いる[[岳飛南宋|宋]]軍が[[亳州]]と[[宿州]]の間にあったが、宗秀は30003,000の兵を率いてその要衝を扼し、諸軍ととも岳飛宋軍を迎撃して破った。凱旋すると、[[太原府|太原]]尹となった。{{仮リンク|婆速路|zh|婆速路}}統軍使に任じられたが、受けなかった。[[高麗]]が使者を派遣して現地の物産を献上してくると、宗秀はこれをしりぞ退けた。入朝して[[刑部]]{{仮リンク|尚書 (官)|label=尚書|zh|尚书 (官职)}}となり、[[御史中丞]]に転じ、[[翰林院|翰林]]学士に任じられた。[[天徳 (金)|天徳]]初年承旨に転じ、宿国公に封じられた。[[平陽郡|平陽]]尹・{{仮リンク|昭義節度使|label=昭義軍節度使|zh|昭義節度使}}を歴任し、[[広平郡]]王に封じられた。[[1157年正隆]]2年([[正隆1157年]]2年)、在官のまま42歳で死去した。享年は42。金紫[[光禄大夫]]の位を追贈された。
 
== 伝記資料 ==
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{{DEFAULTSORT:かんかん そうしゆう}}
[[Category:金の皇族|そうしゆう]]
[[Category:1116年生]]
[[Category:1157年没]]