「方城炭鉱」の版間の差分

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当時は坑内作業は12時間ごとの2交代制で、非番の坑夫が救援作業に招集された。坑内は「後ガス」「シビレガス」等とよばれる[[一酸化炭素]]が充満して危険な状態であった。当時は[[酸素マスク]]はなく、ガスを中和すると当時信じられていた「[[夏ミカン]]」が近隣の商店や農家から大量に集められ、半分に割って次々と坑内へ投下された。真っ先に坑内に降りる決死隊を募ったところ、数十人が名乗り出、選抜された9人は午後1時、夏ミカンを口にあて、いまだ薄煙をはく坑口から降りていった。しかし充満するガスでまもなく9人は[[窒息]]、地上に引き揚げられて手当てを受けるが、そのうち5人が死亡した。午後2時半ごろ、第二次救援隊が送り込まれるが、縦坑の破損がひどく昇降機が途中で停止。救援隊はいったん地上に出、補修資材や[[梯子]]を持って再度降下、必死の坑道修理を行って夜には坑底に到達した。続いて吉澤坑長はじめ[[技師]]や[[医師]]が入坑したが、坑道は横転した炭車や鉄のレール、坑木などが爆風で散乱する惨状であった。障害物やガスで一行は前進不能となり、吉澤坑長がガスを吸って意識不明となったため捜索は中断、一行は後退した。翌17日早朝、新たに180人以上の救援隊が組織されて大規模な救援活動が試みられるが、坑道の破壊が甚だしく、坑道補修の資材搬入すら困難な状態であった。また落盤で通気口が塞がれ、坑内に充満した一酸化炭素により、ついに早期救援による生存者救出は絶望的となった。
 
三菱炭鉱が公式発表した大非常の死亡者は671人である。死者のうち131人が女性で、11歳から18歳の若年者が71人(男44人・女27人)いた。また4人は救援隊で、当時の入坑者688人のうち死者は667人、生存者は21人であり、死亡率は坑内にいた者全体の97%に達し、方城大非常は公式発表のみでも今なお2位以下を大きく引き離す日本最大の炭鉱爆発事故となった(三菱鉱業社史)。当時の炭鉱で作業員は炭鉱の被雇用者ではなく「[[納屋制度|納屋]]」と称する多数の鉱山周辺の派遣企業に所属していた。公式死亡者数は納屋から提出された名簿を基にしているが、名簿から漏れた者も多かった上、名簿そのものを提出しない中小の納屋もあったため、当時の新聞記事では推定死者数が655人から8百人まで幅があり、また地元では死者は千人を超えていると噂された。親子兄弟の労働者も多く一家全滅が22名、また孤児784名と、扶養者を失った老人51名を生み出した。一方、石炭運搬用の馬11頭も犠牲となった。遺体捜索は年が明けてなおも続いた。遺体は8体ずつ昇降機で引き上げられ、急造の火葬場には幅2メートルほどの細長い溝が掘られて4本のレールを渡した上に棺を乗せ、石炭で火葬にした。
 
事故翌年、付近の[[神社]]に三菱炭鉱が[[慰霊碑]]を設置した。碑の表には「招魂碑」、裏には671人の犠牲者を記念する碑文の後に「一坑二坑役夫約三千人」と刻まれている。近隣の福圓寺では、毎年遭難者の法要が行われるようになった。