「ダルマパーラ・ラクシタ」の版間の差分

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帝師としてのダルマパーラ・ラクシタの事蹟は漢文史料側には全く言及がないが、チベット語史料側にはセチェン・カアン(世祖[[クビライ]])に請うて「パクパの遺骨や聖物を安置した水晶の大塔」と、その大塔がある大寺を建てたと記される<ref>稲葉1965,117頁</ref>。また、大元ウルスの朝廷滞在中にチベット侵攻を指揮した[[コデン]]の子の[[ジビク・テムル]]の娘のペンデン(dPal ldan)を娶ったとも伝えられている<ref>佐藤/稲葉1964,120頁</ref>。
 
ダルマパーラ・ラクシタの没年について、『元史』釈老伝は[[1286年]]([[至元 (元世祖)|至元]]23年)に亡くなったと記し<ref>『元史』巻202列伝89釈老伝,「帝師八思巴者、土番薩斯迦人、族款氏也。……十一年、請告西還、留之不可、乃以其弟亦憐真嗣焉。……亦憐真嗣為帝師、凡六歳、卒。至元十九年、'''答児麻八剌剌吉塔'''嗣、二十三年卒」</ref>、『元史』世祖本紀には同年に次のイェシェー・リンチェンが帝師になったと記される<ref>『元史』巻14世祖本紀11,「[至元二十三年]是歳、以亦摂思憐真為帝師」</ref><ref>稲葉1965,118頁</ref>。一方、チベット語諸史料は一致してダルマパーラ・ラクシタは「サキャ派の座主」としてチベットを統治するため帰国する途上で亡くなったとするため、『元史』釈老伝の記述は帝師の辞任をダルマパーラ・ラクシタの死亡によるものと誤解した記述であると考えられる<ref>稲葉1965,118-119頁</ref>。また、チベット語史料の中でもダルマパーラ・ラクシタの没年について様々な説があるが、稲葉正就はより多くの史料が採用している[[1287年]]([[丁亥]])没説を正しいとする<ref>稲葉1965,119頁</ref><ref>乙坂1989,42頁</ref>。
 
ダルマパーラ・ラクシタの没後、[[クビライ]]は唯一残った[[コン氏]]直系の男子のサンポペルの帰国を許さず拘禁したため、チベット本国における座主・大元ウルス朝廷における帝師の地位はともに非コン氏の人間の手に渡った<ref>乙坂1989,29-30頁</ref>。コン氏の不在とクビライによるチベットへの干渉の増大はサキャ派以外の諸宗派の不満を呼び起こし、やがて[[ディグン派の乱]]を引き起こすに至った<ref>乙坂1989,34頁</ref>。
 
== 脚注 ==