「ピョートル1世 (ロシア皇帝)」の版間の差分

m
内容の修正
m (内容の修正)
タグ: ビジュアルエディター モバイル編集 モバイルウェブ編集
ピョートルは幼い頃から本格的な軍事教練に熱中し、後に近衛軍の核となる連隊を組織させていた<ref>木崎 (1971), pp. 76–77</ref>。親政初期から海軍を創設し、1696年に艦隊を使ってアゾフを陥落させ、大使節団でも[[海事]]を中心に学んだ。1700年ナルヴァでの敗北は彼にロシア陸海軍の装備・訓練の不足を痛感させ、本格的な軍事改革に着手させた。まず海軍省と[[砲兵]]学校を創設し、[[小銃]]・[[大砲]]・[[軍艦]]の増産を急ピッチで進めた。1705年には終身型の[[徴兵制度]]も導入、新設軍隊の兵士は西欧式の訓練を施された<ref>土肥 (1992), pp. 96–101</ref><ref>阿部 (1966), pp. 127–130</ref>。
 
1698年に本国に還御すると、西欧化改革の始まりを示すべく大貴族の髭を切らせ、髭に課税して切るよう一般民衆にも強制した{{efn|ロシア伝統文化において髭は男性の象徴だった<ref>トロワイヤ (1981), pp. 108–109</ref>。}}<ref>鳥山 (1978), p. 34</ref>。廷臣と役人にも西欧式正装を義務づけたほか、1700年には[[暦法]]を改正して[[世界創造紀元|天地開闢紀元]]からキリスト紀元([[西暦]])に切り替え、新年も9月1日から[[1月1日]]に改めさせた{{efn|西暦1700年は天地開闢紀元では7208年にあたった<ref>木崎 (1971), pp. 28–29</ref>。}}<ref>大野&山上 (1974), p. 173</ref>。さらに1702年には宮廷改革に着手し、女性皇族が従っていた厳しい行動制限を撤廃して宮廷行事への出席を命じた<ref group="注釈">これにより、皇女たちを[[政略結婚]]に利用する道が開かれた。</ref>。
 
行政も改革の対象となり、スウェーデンをはじめとするヨーロッパ諸国をモデルにして整備された<ref>木崎 (1971), pp. 136–137</ref>。中央政府では、1711年元老院が設置されてツァーリ不在時の政務を代行した。1718年には行政区分が改革され、50以上存在し役割の重複した官庁制度を廃止し、役割ごとに分けた9つの参議会制度に再編された。地方行政では1708年国内を8つの県に分けたが、1719年にさらに45の州に分けて統治した。また、1722年には、スウェーデンやドイツの制度にならって[[ロシア帝国#官等表|官等表]]を定め、国家官僚を文官と武官に分けて14等に格付けし、官僚制度を確立した<ref>相田 (1975), pp. 306–307</ref>。
貴族や教会に対しては、改革を通じてツァーリと国家への従属を要求していった。
 
貴族に対しては、まず[[爵位]]制度が導入されて、古い大貴族が持つ称号は廃止された。1714年に慣習であった領地の[[分割相続]]制を禁じて[[長子相続|長子相続制]]に移行させたため、長男以外の貴族子弟は生活のために軍か政府で勤務するのを事実上強要された<ref>土肥 (1992), pp. 156–166</ref>。国家勤務者は官等表で3種14等級にランクづけられた。国家奉仕のためには教育が必要不可欠であり、彼ら貴族の子弟のために、実業学校など様々な教育の場がもうけられた<ref group="注釈">{{Efn|貴族層への熱心な働きかけは実を結び、18世紀中葉には貴族層は十分に西欧化し、[[フランス語]]での読み書きと会話が常識となった。</ref>}}
 
[[ロシア正教会]]に対しても、国家による管理を徹底させた。[[イングランド国教会]]の制度に倣ったと考えられる。[[1700年]]以降、[[モスクワ総主教|モスクワ総主教座]]は空位とされ、教会が持つ免税特権も奪われた。1720年には総主教座の廃止に踏み切り、教会を[[聖務会院]]という国家の世俗機関の管轄下に置いた。ピョートルに抜擢されて教会統制に携わった[[主教]]達は[[西方教会]]の影響を受けた人々であり、教会にも西欧化の波が及んだ。こうした国家による教会の統制という考え方は、正教会における伝統的な国家と教会のあるべき関係である「[[ビザンティン・ハーモニー]]」とは相容れないものであり、19世紀後半頃から東方正教の伝統を復興している現代の[[正教会]]からは西欧化も肯定出来るものではない。従って正教会からのピョートル1世に対する評価は著しく低いものとなっている<ref>高橋 (1980), pp. 142–145</ref>。