「烏蘇米施可汗」の版間の差分

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'''烏蘇米施可汗'''([[呉音]]:うそまいせかがん、[[漢音]]:おそべいしかん、[[拼音]]:Wūsūmǐshī kĕhàn、? - [[744年]])は、[[東突厥]]第二可汗国期の可汗。判闕特勤の子。姓は[[阿史那氏]]、名は不明。可汗号である烏蘇米施可汗の原音は'''オズミシュ・カガン'''(Özmiš qaγan)という。
 
== 生涯 ==
左殺(左シャド)<ref>Šad(シャド、設、殺)とは、[[突厥]]可汗国において各地方に置かれた[[総督]]。この頃になると東西2人のシャドがいたらしく、東のシャドを'''左シャド'''、西のシャドを'''右シャド'''といった。</ref>である判闕特勤(はん・キョル・テギン)<ref>Tägin(テギン、特勤)とは、突厥可汗国において[[皇太子]]や[[王子]]に与えられる[[称号]]。可汗の兄弟などにも見受けられる。</ref>の子として生まれる。
 
[[天宝 (唐)|天宝]]([[742年]] - [[756年]])の初め、[[骨咄葉護可汗]](クテュルトゥ・ヤブグ・カガン)が回紇([[ウイグル]])・葛邏禄([[カルルク]])・抜悉蜜([[バシュミル]])の3部族によって殺され、抜悉蜜部の酋長である阿史那施(アシナ・シュ)が立って[[頡跌伊施可汗]](イルティリシュ・カガン)となり、回紇・葛邏禄の酋長もそれぞれ左右の葉護(ヤブグ)<ref>Yabγu(ヤブグ、葉護)とは、突厥可汗国における[[大臣]]級の官名。</ref>と称した。これに対して突厥の国人たちは判闕特勤の子を奉じて烏蘇米施可汗(オズミシュ・カガン)とし、その子の葛臘哆を西殺(右シャド、西シャド)とした。
 
[[唐]]の[[玄宗 (唐)|玄宗]]が烏蘇米施可汗のもとに使者を送って内附するよう説得したが、烏蘇米施可汗は聞き入れなかった。また、東突厥国内でも烏蘇米施可汗に附こうとする者はおらず、烏蘇米施可汗が抜悉蜜・回紇・葛邏禄の3部の攻撃を受けて遁走した時も、その西葉護(西ヤブグ)である阿布思および、息子で西殺の葛臘哆は5千帳を率いて唐へ降り、葛臘哆は玄宗によって懐恩王に封ぜられた。