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[[永正]]3年([[1506年]])の[[享禄・天文の乱#河内国錯乱|河内国錯乱]]では[[細川政元]]に協力するべく、9世法主[[実如]](蓮如5男)が発した動員令に対して[[河内国|河内]]・[[摂津国|摂津]]の門徒らは「開山聖人この方このような指図は一切なかった」として派兵を拒絶。大坂方の強硬な態度に辟易した実如はやむをえず[[加賀国|加賀]]4郡から1000人余りの門徒を呼び寄せた。これに対して大坂方は実如への不信感を強め、ついには大坂にいた蓮如の実子である実賢を新たな法主に祭り上げようと企て、近隣諸国の坊主に回状を送り実如追い落としへの協力を求めた。この企みに気付いた実如は即座に側近[[下間頼慶]]に兵を与えて大坂の制圧を命じ、頼慶はこれを成功させ実賢と蓮能尼を始め[[実順]](蓮如11男)、[[実従]](蓮如13男)らを捕縛した。
 
乱後、実賢や蓮能尼母子や実順、実従らは破門され三年間浪々の身となって[[京都]]などに住んでいたが、永正6年([[1509年]])に[[曇華院]]門跡の仲介によって破門を解かれ復帰し、永正16年([[1519年]])には[[近江国|近江]][[堅田 (大津市)|堅田]]の称徳寺の住持に任じられた。大永3年(1523年)8月3日没。享年34。
 
死後、称徳寺の住持を継いだのは長男実誓であったが、この時まだ5歳という幼さであったので実質的な運営は近畿地方の重鎮たる[[蓮淳]](蓮如6男)の手に委ねられることとなった。