「シカンダラーバード」の版間の差分

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==歴史==
初期文明の存在を示唆する[[石碑]]、[[石器]]が発掘されており、その歴史は有史前に遡ることができると考えられるが、現在みられる町の姿は[[英印軍|イギリス大英帝国軍]]の駐屯後に形成され、インドにあってはかなり歴史の浅い都市である。[[1806年]]に第7代インド総督代理が、[[1800年]]に調印された同盟協定をもとに、イギリス軍駐屯地の提供を[[ニザーム藩王国]]6代目当主の[[ミール・アクバール・アリ・カーン|セカンダル・ジャー]]に要求し、フセイン・サーガル北岸の平原に確保した駐屯地がその始まりである。祖国[[イギリス]]を遠く離れて駐屯するイギリス将兵が[[ホームシック]]にならないように、セカンダラバード駐屯地内には、[[キリスト教]][[教会]]、[[修道会]]学校、セカンダラバード・クラブ(社交場)などの施設が造られ、町並みもイギリス様式に設計された。その当時建設された時計塔が、セカンダラバードの名物として、また当時の教会も壮麗な様相そのままに今も残っている。ハイデラバード-[[ムンバイ]]間の定期航空路を運営しようと、インド人先覚的者達によって16haの[[飛行場]]も建設されている(残念ながら、最初に飛行機が着陸したのは、駐屯地の閲兵場だったが)。
 
後のイギリス首相[[ウィンストン・チャーチル]]も、1880年代に[[中尉]]としてセカンダラバードに赴任し、「隠遁所」と名づけた平屋に住んでいた。彼とその同僚は、セカンダラバード駐屯地をもってニザーム藩王国の衛兵たらんと称しながら、自らを[[アジア]]の大悪党と任じていた。言い伝えによると、チャーチルの部隊が、かくも短期間の駐屯で配置転換を命ぜられたのは、セカンダラバード・クラブでのツケを払えなかったからだとも言われている。彼への請求書の一部は、現在もセカンダラバード・クラブの「公文書」として残っているそうである。