「エクベルト1世 (マイセン辺境伯)」の版間の差分

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'''エクベルト1世''' ('''Ekbert I.'''、[[1068年]][[1月11日]]没)は、[[ブルノン家]]出身の[[ザクセン]]伯、[[マイセン辺境伯]]。
 
エクベルトは、[[ザクセン]]貴族の[[リウドルフ (フリースラント辺境伯)|リウドルフ]]([[1038年]]没)の息子で、彼から[[ブラウンシュヴァイク]]周辺の所領を相続した。[[ヒルデスハイム]][[司教区]]に隣り合った[[オストファーレン]]伯領は[[1051年]]に創設された。これに加えてエクベルトは、[[ハンブルク]]=[[ブレーメン]]大司教領となっていたかつての[[フリースラント]]伯領を獲得した。[[ザリエリ家]]との親密な血縁関係にもかかわらず、エクベルトは[[1062年]]におきた[[カイザースヴェルトのクーデター]]と言われる未成年のドイツ王[[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]の誘拐に関わっている。[[1067年]]にエクベルトは[[マイセン]]辺境伯領を与えられた。
 
彼は[[1058年]]に、[[シュヴァーベン]][[公爵]][[オットー3世 (シュヴァーベン公)|オットー3世]]([[1038年]]没)の未亡人イルムガルト・フォン・[[トリノ]]と結婚した。彼女は、姉アーデルハイドを介して、ハインリヒ4世の皇妃[[ベルタ (皇妃)|ベルタ・フォン・トリノ]]の叔母にあたる。エクベルト1世の後継者は息子の[[エクベルト2世 (マイセン辺境伯)|エクベルト2世]]であったが、エクベルト2世が、[[1090年]]に子供を遺さずに亡くなると、ブルノーネ家の所領はその妹の[[ゲルトルート・フォン・ブラウンシュヴァイク]]のものとなった。
 
エクベルト1世は、ブラウンシュヴァイク領内での商取引を奨励し、またその地のキリアクス修道院を創設したと推定されている。ブルノーネ家の墓所はこの[[修道院]]にある。