「鮭延氏」の版間の差分

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== 概要 ==
[[近江国|近江]][[鯰江城]](現・[[滋賀県]][[東近江市]]鯰江町)の城主、鯰江氏の一族であったという。[[応仁の乱]]以降の[[15世紀]]末頃か、新太郎綱村が一族を率いて[[出羽国|出羽]]北部の[[横手盆地|仙北]]に下向する。沼館城(現・[[秋田県]][[横手市]]雄物川町沼館)を居城としていた[[小野寺氏]]<ref>[[横手城]](現・[[秋田県]][[横手市]]城山町)を居城としたのは[[16世紀]]前半の[[1520年]]代からと推測されている。</ref>の庇護を受け、関口(現・秋田県[[湯沢市]]関口)の番城を預けられた。
 
その後、当主は綱常、常孝と続き、[[大永]]から[[天文 (元号)|天文]]年間(1520~30年代)頃、小野寺氏の命で現在の山形県側の[[最上地方]]に岩鼻館(現・[[山形県]][[戸沢村]]蔵岡岩花)を拠点として築き、天文4年([[1535年]])には、佐々木貞綱が鮭延荘に[[鮭延城]](現・山形県[[真室川町]]内町)を築いたという<ref name=yamagataken>山形県教育委員会 1997 pp.196-198</ref><ref name=mamurogawa>[https://www.town.mamurogawa.yamagata.jp/docs/2018120401261/ 「鮭延城跡」]真室川町公式HP</ref>。天文5年([[1536年]])には貞綱が菩提寺として正源寺(現・山形県[[真室川町]]新町)を開基している。[[永禄]]6年([[1563年]])に[[庄内地方]]の[[大宝寺氏]]([[武藤氏]])の侵攻に敗れ、[[鮭川]]のほとりに退いて[[鮭延城]](現・山形県真室川町内町)を新たな拠点として築城した。これ以降、鮭延氏を名乗るようになる。小野寺氏と縁戚関係を結び、[[小野寺義道]]の母は貞綱の妹である。
 
貞綱の子[[鮭延秀綱|秀綱]]が当主となって後、[[天正]]9年([[1581年]])に[[山形城]](現・山形県[[山形市]]霞城町)城主[[最上義光]]の侵攻を受け、攻め手の[[氏家守棟]]の調略により、一族の庭月広綱らの切り崩しを受けたため降伏、本領を安堵された。以後は[[最上氏]]に仕え、最上領北方の守護として旧主・小野寺氏を相手に和戦両面で活躍、[[文禄]]4年([[1595年]])には[[楯岡満茂]]の先鋒として[[湯沢城]](現・秋田県湯沢市古館山)攻略に貢献するなどした。
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秀綱は[[寛永]]10年([[1633年]])4月の土井家転封に伴って古河に移り、[[正保]]3年([[1646年]])死去。付き従っていた家臣たちはあらためて土井氏の家臣となった。遺徳を偲んだ家臣達によって[[鮭延寺 (古河市)|鮭延寺]](現・[[茨城県]][[古河市]]大堤)が建立され、弔われた。鮭延氏の墓所は鮭延寺と正源寺の双方にある。
 
秀綱弟・井上綱知は兄に従い知行1000石であったが、[[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])死去し、その子の義綱は伯父に従って土井氏に仕えた。義綱は土井利勝の推挙で幕府直参となる見込みで江戸に向かったが直後に病没して成らず、子孫は代々江戸の町医者となったという。[[文化 (元号)|文化]]13年([[1816年]])に鮭延秀庵義知が[[加賀藩]]に召し出され藩医となった。義知には妻子がなく、[[手塚光照]]の子の鮭延節藏(良節)を養子とした。この家系は養子縁組をしながら続き、外交官の[[鮭延信道]]などがいる。
 
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
*山形市市史編纂委員会『山形市史 史料編1(1(最上氏関係史料)』[[1973年]]
*真室川町史編纂委員会『真室川町史』[[1997年]]
*山形県教育委員会 1997「鮭延城(真室城)」『[https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/5916 山形県中世城館遺跡調査報告書3(庄内・最上地区)]』山形県 pp.196-198
*山形市市史編纂委員会『山形市史 史料編1(最上氏関係史料)』[[1973年]]
 
== 外部リンク ==