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1948年3月、芦田内閣が発足した。芦田内閣においては戦後日本の基礎となる多くの法律が成立している。新憲法に基づく[[刑事訴訟法]]の全面改正や警察組織の抜本改革([[警察法#旧警察法の制定|旧警察法]]の制定)、[[国家行政組織法]]とそれに基づく[[中小企業庁]]・[[石炭庁]]・[[建設省]]・[[海上保安庁]]・[[水産庁]]・[[経済企画庁|経済調査庁]]といった各行政庁の設置法、[[教育委員会法]]、[[日本学術会議]]法、[[警察官職務執行法]]、[[行政代執行法]]、[[地方財政法]]、[[検察審査会法]]、[[軽犯罪法]]、[[風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律|風営法]]などがそれである。しかし、芦田自身が総理大臣として対応したのはインフレ対策や労働攻勢への対処であった。GHQは中道の芦田政権に好意的で、これらの課題を後押ししたが、政権は脆弱な政権基盤と野党自由党からの攻撃に苦慮し続け、独自の政策を打ち出す余裕は乏しかった。芦田は当時、誰が担当しても連合国の政策に沿う以外はなかったと書いている。これは一面の真理ではあるが、吉田茂首相が同じく占領政策の枠内にありながら、マッカーサーや、しばしば米国政府とも直接渡り合って自らの政策実現に尽力したような指導力を持ち得なかったという事情も大きかった。
 
なお、前任の片山が社会党委員長でかつ熱心な[[クリスチャン]]でありながら、[[昭和天皇]]の護持に心を砕いたのに対し、芦田は「新憲法になって以後、余り陛下が内政外交に御立入りになる如き印象を与えることは、皇室のためにも、日本のためにも良いことではない」と、憲法に記載されている通り、天皇を元首としてではなくあくまで象徴として扱うことを心がけた。首相就任当時、芦田は、これ以降閣僚の[[内奏]]を取り止める旨を奏上した。芦田自身も外相時代、天皇に上奏をほとんど行わなかったため、[[鈴木一 (農林官僚)|鈴木一]][[侍従次長]]が「陛下は外交問題について御宸念遊ばしてゐる(中略)外務大臣が内奏に見えないのか(中略)見えるなら土曜日でもよろしい」と、当時の[[岡崎勝男]][[外務事務次官]]に漏らしていた。それを聞いた芦田は「御上の思召」なら行くべきだと宮中へ参内した。
 
=== 芦田内閣の崩壊 ===