「タークシン」の版間の差分

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タークシンは敵対する[[ピサヌローク]]や[[ナコーンシータンマラート]]、[[ピマーイ]]、[[プラ]]・[[ファーン郡|ファーン]]などの諸勢力を破り、さらに[[ランナー王朝]]を服従させた。さらに、アユタヤ王朝の属国であった[[カンボジア]]、[[ラオス]]も回復した。在位15年間の大半を戦争に費やしたタークシンを支えた将軍が '''チャックリー侯爵'''(後の[[ラーマ1世]])である。文化の面でも業績を残しており、アユタヤ王朝末期に散逸した文献の収集と整理にも力を入れた。タークシンの編纂した『[[ラーマキエン]]』は、多数ある版本の中でも最もよいものとされている。また、[[三島由紀夫]]の小説『[[暁の寺]]』で知られる寺院[[ワット・アルンラーチャワラーラーム]]を修復するなど[[仏教]]も手厚く保護した。
 
タークシンは自分が中国系でアユタヤ王朝の王家の血を引いていないことに強いコンプレックスを抱いており、次第に精神錯乱を来すようになった。例えば、「朕は[[阿羅漢]]の境地に達した」と言い出し、僧侶に自分を礼拝するよう命じたが、[[タイの仏教]]では僧侶が民間人の阿羅漢を礼拝すること禁じているために数名の高僧が断った。これに怒ったタークシンは、彼らを捕えて僧籍を剥奪し鞭打ちの刑に処した。この事は民衆に衝撃を与え、各地で反乱が起こり始めた。また、鉱山の税務官が職権を乱用したことも民心の離反を招き反乱の原因となっていた。タークシンはサン伯爵に反乱鎮圧を命じたが、簒奪を狙ったサン伯爵は却って反乱者を集めてトンブリーを攻めて摂政に就き、タークシンは出家を強いられた。この時、'''マハーカサットスック公爵'''(チャックリー侯爵、後のラーマ1世)がカンボジア遠征から戻り、民衆の支持もえて国権を掌握した。[[1782年]]([[タイ仏歴]]2325年)[[4月6日]]、タークシンはマハーカサット・スック侯爵によって処刑され、トンブリー王朝はタークシン一代で滅亡した。
 
== 紙幣との関係 ==