「彷徨五年」の版間の差分

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===恭仁宮の造作停止と難波宮への遷都===
天平15年12月26日の続日本紀には、平城京から移設した大極殿の造営はほぼ完了したが、紫香楽宮の造営に注力するために以後は恭仁宮の造作を停止する旨の記述がみられる<ref>「初めて平城(なら)の大極殿并(あは)せて歩廊を壊ちて恭仁京に遷し造ること四年にして、茲にその功(わざ)纔(わづ)かに畢(をは)りぬ。用度の費さるること勝(あ)げて計ふべからず。是に至りて更に紫香楽宮を造る。仍て恭仁京の造作を停む。」青木ほか(1990:432-435)。聖武天皇 p276-277</ref><ref>橘諸兄 p116</ref><ref>古代寺院造営の考古学 p123</ref>。翌天平16年(744年)正月には百官と恭仁宮の市人に恭仁宮と難波宮のどちらを都にすべきかを問うが、百官の意見は別れ、市人は恭仁宮残留を望んだ<ref>聖武天皇 p277-279</ref>が、聖武は恭仁宮を出て難波への遷都を開始する。1月11日に難波宮に行幸し約2か月間滞在した<ref>古代寺院造営の考古学 p123</ref>。2月1日に天皇の公文書に押される'''内印'''と太政官の公文書に押される'''外印'''と'''駅令'''が恭仁宮から難波宮へ送られ、2月20日には天皇の御座所である[[高御座]]と首都を象徴する大楯が運ばれ、同日に武器類も送られ、首都としての恭仁宮は廃された<ref>聖武天皇 p281-283</ref><ref>橘諸兄 p121-122</ref>。しかし2月24日に聖武は紫香楽宮に戻って大仏造立に専心し、翌年5月には紫香楽宮で叙位を行っている{{sfn|瀧浪貞子|1990|p=103、107}}。また後の経過から見て、難波宮に移転した廷臣は橘諸兄など僅かな数であり、ほとんどは恭仁京に残っていたとみられる{{sfn|瀧浪貞子|1990|p=92}}。元正太上天皇は難波宮に残ったため、二所朝廷が成立したという見解もある{{sfn|瀧浪貞子|1990|p=104}}。2月26日2月26日、難波宮に残った[[左大臣]]の橘諸兄が「難波宮をもって皇都とする」旨の勅を読み上げた<ref>橘諸兄 p122-124</ref>。3月11日に難波宮の中門と外門に大楯と大鉾が立てられ、この地が皇都であることが庶民にも示された<ref>聖武天皇 p284</ref>。10月には聖武唯一の男子であった[[安積親王]]が病死している{{sfn|瀧浪貞子|1990|p=105}}。
 
===紫香楽新京から平城京へ帰還するまで===