「藤原南夫人」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
脚注を増補。
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集
4行目:
[[聖武天皇]]の夫人で、[[天平]]9年([[727年]])2月にもう一人の[[藤原北夫人|藤原夫人]]とともに[[无位]]から一躍[[正三位]]に昇叙している。[[藤原氏]]は[[光明皇后]]が[[基王]]の死後、天皇の跡継ぎである男子を生まなかったため、焦りを感じてこのような行動に出たものと思われる。しかし、彼女たちからも天皇の後継者たる皇子・皇女が生まれることはなかった。この5ヶ月後に、父親の[[藤原武智麻呂|武智麻呂]]と死別する<ref>『続日本紀』巻第十二、聖武天皇 天平9年7月25日条</ref>。
 
天平17年([[735年]])11月、[[山城国|山背国]][[宇治郡]]加美郷の人、宇治宿禰大国より、同郷の堤田村の家一区、地7段180歩、山2町を貢進されている<ref>『東南院文書』巻二 - 390頁</ref>。北夫人よりも先って天平20年([[748年]])6月、薨去。同年8月、上述の宇治大国より、同じく加美郷堤田村の地8段、屋2間を買ったともあるが、「'''旧'''正三位藤原南夫人家」とあり、この時には既に南夫人がくなっていたことを差し示している<ref>『大日本古文書』巻三 - 113頁</ref><ref>『東南院文書』巻二 - 391頁</ref>。
 
== 官歴 ==