「橘古那可智」の版間の差分

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== 経歴 ==
[[天平]]8年([[736年]])11月、伯父の[[橘諸兄]]・父の[[橘佐為]]らとともに、[[橘氏|橘]][[宿禰]]の賜姓を受け<ref>『続日本紀』巻第十二、聖武天皇 天平8年11月11日条</ref>、天平9年([[737年]])2月に[[無位]]から[[従三位]]に叙せられており、同時に父佐為も[[従四位上]]から正四位下に昇進している<ref>『続日本紀』巻第十二、聖武天皇 天平9年2月14日条</ref>。このため、この時期に聖武天皇の[[夫人]](ぶにん)となったとされているが、既に[[安積親王|皇子]]を生んでいる[[県犬養広刀自]]も同時に無位から従三位に叙位されていることから天皇のキサキなった時期とは分けて考えるべきだという見方もあり、[[光明皇后]]の実母で宮廷に大きな影響力があった祖母・県犬養三千代(天平5年1月死去)の存命中にその後ろ盾で入内したとする説もある<ref>木本、2021年、P142-144.</ref>。
 
天平21年([[749年]])4月、[[聖武天皇]]の[[東大寺]]行幸の折に[[正三位]]から[[従二位]]に昇進した<ref>『続日本紀』巻第十七、聖武天皇 天平21年4月1日条</ref>。その後、[[正二位]]に昇叙され、[[橘奈良麻呂の乱]]が起こった2ヵ月後の[[天平宝字]]元年([[757年]])閏8月、妹[[橘真都我|真都我]]や同族の[[橘綿裳]]らとともに橘氏を改めて広岡[[朝臣]][[カバネ|姓]]を賜った<ref>『続日本紀』巻第二十、孝謙天皇 天平勝宝9歳閏8月18日条</ref>。天平宝字3年([[759年]])7月に薨去したが、このときは「夫人正二位広岡朝臣古那可智」と記載されている<ref>『続日本紀』巻第二十二、廃帝 淳仁天皇 天平宝字3年7月5日条</ref>。聖武天皇との間に皇子女はいなかった。