「日本とフィリピンの関係」の版間の差分

知ってmotto、行ってmottoフィリピンを出典とした記述の除去。詳細はノートにて。
(知ってmotto、行ってmottoフィリピンを出典とした記述の除去。詳細はノートにて。)
 
[[1960年]][[日比友好通商航海条約]]が調印されたが、フィリピンにおける対日感情が改善しない影響で批准は1973年まで待たなければならなかった。
 
[[1964年]]、フィリピンへの自由な渡航が許されると、多くの日本人が[[鎮魂|慰霊]]のためにフィリピンを訪れた。日本人戦没者の[[慰霊碑]]がフィリピン各地に400もでき、慰霊碑を訪ねるツアーも盛んにおこなわれた。遺族は、日本人がフィリピンで残虐行為を非難されても否定できないおこないをしてきたことを知っており、フィリピン人からどのような仕打ちを受けるかを恐れていたが、フィリピン人はこれらを暖かく歓迎した<ref name="平山順子2">{{Cite news|author=[[平山順子]]|url=https://www.motto-motto-philippines.info/2019/11/08/なぜ-超反日-から-超親日-へ-2-ー際立つフィリピン人の寛容さ/ |title=なぜ、「超反日」から「超親日」へ【2】際立つフィリピン人の寛容さ|newspaper=知ってmotto、行ってmottoフィリピン|publisher=|date=2019-11-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210508094913/https://www.motto-motto-philippines.info/2019/11/08/なぜ-超反日-から-超親日-へ-2-ー際立つフィリピン人の寛容さ/ |archivedate=2021-05-08|deadlinkdate=}}</ref>。
 
[[1980年代]]には、多くのフィリピン人の間で第二次世界大戦の記憶は薄れ、あるいは忘れられつつあり、彼らにとって日本は開発援助・貿易・投資・観光の資金源でしかなく、そのため両国間の外交摩擦はほとんど見られなかった。[[1986年]]11月、[[コラソン・アキノ]]大統領(当時)は日本を訪れ[[昭和天皇]]と面会した。そして彼女の訪日中に、新たな援助が両国間で合意された。[[1989年]]、アキノ大統領は昭和天皇の[[大喪の礼|葬儀]]参列のために再訪日、[[1990年]]には[[上皇明仁|明仁天皇]]の[[即位の礼]]参列のためにまた日本を訪れた。
 
日本はフィリピンの政情面でも貢献しており、フィリピンの[[イスラム過激派]]で、反政府闘争を続ける[[モロ・イスラム解放戦線]](MILF)と、フィリピン政府との仲介を行っている。[[2011年]]には、日本政府の仲介で[[ベニグノ・アキノ3世|アキノ]]大統領が極秘来日し、MILFの最高指導者[[ムラド・エブラヒム]]議長と8月4日に[[東京]]近郊で非公式会談を行った。政府・MILFのトップ同士の会談は初めてである<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/23/dmt_110805.html フィリピン・ミンダナオ和平に関するアキノ大統領とムラド・モロ・イスラム解放戦線(MILF)議長との非公式会談について] [[外務省]] 2011年8月5日</ref>。また、[[国際協力機構]]は、この地域の事業への資金供給を行っており、[[ベニグノ・アキノ3世|アキノ]]大統領は、MILFとの和平において「日本の貢献は計り知れない」と謝意を示している<ref>{{Cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/140624/asi14062422400003-n1.htm|author=|title=比大統領、日本に謝意 広島でミンダナオ和平会議|newspaper=[[産経新聞]]|publisher=|date=2014-06-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140624170804/http://sankei.jp.msn.com/world/news/140624/asi14062422400003-n1.htm|archivedate=2014-06-24|deadlinkdate=}}</ref>。
 
== フィリピンにおける対日感情 ==
フィリピンでは、戦後30年間ほどは、日本人と分かると「[[殺人|人殺し]]」と罵られ投石されるほど憎まれていた<ref name="平山順子">{{Cite news|author=[[平山順子]]|url=https://www.motto-motto-philippines.info/2019/11/05/なぜ-超反日-から-超親日-へ-1-フィリピン-戦後70年の歩み/ |title=なぜ、「超反日」から「超親日」へ【1】フィリピン、戦後70年の歩み|newspaper=知ってmotto、行ってmottoフィリピン|publisher=|date=2019-11-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210120172731/https://www.motto-motto-philippines.info/2019/11/05/なぜ-超反日-から-超親日-へ-1-フィリピン-戦後70年の歩み/ |archivedate=2021-01-20|deadlinkdate=}}</ref>。激しい憎悪の対象であり、その[[反日感情]]は凄まじく、[[アジア]]で最も対日感情の悪い国であり<ref name="平山順子2"/>、[[日系フィリピン人]]は報復を恐れて身分を隠して生きていかざるをえないほどであった<ref name="平山順子"/>。
 
しかし、[[2015年]]にフィリピンでおこなわれた[[世論調査]]によると、フィリピン人の日本への好意度は95%以上であり、調査をおこなった[[東南アジア|東南アジア諸国]]のなかで日本に対する好感度をもつ人が最も多い国となっている<ref name="平山順子2"/>。フィリピン人が最も好感度をもっている国は[[アメリカ合衆国|アメリカ]](96%)、その次は日本であり、フィリピン人にとって日本はアメリカと並び世界でもっとも好感度が高い<ref name="平山順子2"/>。現在のフィリピン人の日本に対する[[イメージ]]は、「[[テクノロジー]]」「[[Made in Japan]]=高品質」という好印象、[[アニメ]]、[[漫画|コミック]]、[[コンピュータゲーム|ゲーム]]、[[J-POP]]などの[[サブカルチャー]]である<ref name="平山順子2"/>。[[フィリピンの戦い (1941-1942年)|日本軍のフィリピンへの侵攻]]により、国土が焦土と化して経済が破綻し、フィリピン人の約7%が死亡したフィリピンが日本に好意をもつようになった要因を[[平山順子]](元[[名古屋大学大学院教育発達科学研究科・教育学部|名古屋大教育学部]]准教授)は、第一にフィリピン政府が[[反日教育]]をしなかったことを挙げている<ref name="平山順子2"/>。これは[[大韓民国|韓国]]および[[中華人民共和国|中国]]と大きく異なることであり、戦後フィリピンにおける反日感情は、日本軍に殺害された一般市民の怒りから発したものであるが、フィリピン政府はこの怒りを利用して国をまとめようとはしなかった<ref name="平山順子2"/>。第二に日本が多額の[[政府開発援助|経済援助]]をおこなったことである<ref name="平山順子2"/>。戦後日本は、フィリピンと[[日本の戦争賠償と戦後補償|日比賠償協定]]を結び、1902億300万円の賠償金を支払ったが、それは他の[[東南アジア|東南アジア諸国]]と比較しても突出して高く、総額の50%を超える<ref name="平山順子2"/>。当時、日本ではフィリピンに対する賠償金が高すぎると[[野党]]が批判したが、[[自由民主党 (日本)|自民党]]のフィリピンをよく知る議員が、この程度の金額ですんだことを「敬意を表すべきだ」と反論している<ref name="平山順子2"/>。日本政府がフィリピンの被害が突出していたことを認識していたからである<ref name="平山順子2"/>。
 
[[フィリピンの戦い (1941-1942年)|日本軍のフィリピンへの侵攻]]によって国土が焦土と化したフィリピンは、物的・人的被害ともに韓国よりはるかに大きな被害を受けたが、一度も日本に謝罪を要求したことがない<ref name="平山順子2"/>。
 
[[第二次世界大戦|第二次世界大戦後]]すぐは「日本人が来た」と誰かが叫ぶと、みんな蜘蛛の子を散らすように家に逃げ帰った。しかし現在は「日本人が来た」と誰かが叫ぶと、みんなあわてて家から出てくる、という「[[反日]]」から「[[親日]]」へとフィリピン人の日本人に対する感情の変化を表す[[笑話]]がある<ref name="平山順子"/>。
 
== 年表 ==