「トマス・ベケット」の版間の差分

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|着座=[[1162年]]
|離任=[[1170年]][[12月29日]]
|前任={{仮リンク|ルド・オブ・ベック|en|Theobald of Bec}}
|後任=リチャード・オブ・ドーバー
|反対者=
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== 生涯 ==
[[ノルマン人]]富裕層の両親の子としてロンドンに生まれた。1142年ごろ、カンタベリー大司教{{仮リンク|ルド・オブ・ベック|en|Theobald of Bec}}の元に仕え、留学の後[[1154年]]に[[助祭]]長となる。<ref name="jiten" />
 
また、イングランド王[[ヘンリー2世 (イングランド王) |ヘンリー2世]]に[[大法官]]として仕えた。しかし、[[大司教]]に叙階された後は教会の自由をめぐってヘンリー2世と対立するようになり、さらには他の司教の支持も失い[[1164年]]、国外へ逃亡した<ref name="jiten" />。逃亡先の[[ポンティニー修道院]]は、当時追放された他のイングランドの高位聖職者達がトマス・ベケットをはじめ、多数滞在した<ref>{{Citation|和書 |last=西田 |first=雅嗣 |year=2006 |title=シトー会建築のプロポーション |publisher=[[中央公論美術出版]] |page=252 |isbn=4-8055-0488-9 }}</ref> 。
 
ヘンリー2世との和解は1170年に成ったものの、帰国早々またしても問題が発生した。ヘンリー2世の息がかかった司教に対し、トマス・ベケットが懲戒を行ったものである。ヘンリー2世は当時[[ノルマンディー]]に滞在していたがこれに激怒し、その意を汲んだ4人の騎士がカンタベリーに向け渡海、12月29日の夕刻トマス・ベケットは[[カンタベリー大聖堂]]において[[暗殺]]された。目撃者の証言によると最後の言葉は「喜んで私は、イエスの名のために、また教会を守るために死ぬ」であったと伝えられている<ref name="jiten" />。
 
== 死後 ==
[[1173年]]、[[教皇|ローマ教皇]][[アレクサンデル3世 (ローマ教皇)|アレクサンデル3世]]はトマス・ベケットを[[列聖]]し、以後多くの巡礼者がカンタベリー大聖堂に訪れることになった<ref name="jiten" />。翌[[1174年]][[7月12日]]、ヘンリー2世はベケットの墓の前で懺悔を行った。ローマ教会に屈服を余儀なくされたこともあり、この事件はヘンリー2世の命運を暗転させる契機となった。
 
[[1880年]]、[[コンラート・フェルディナント・マイヤー]]が『聖者』でベケットの生涯を描いた。[[1884年]]、詩人の[[アルフレッド・テニスン]]が『ベケット』を書き<!--年代は:en:Thomas Becket より。 In 1884, England's poet laureate Alfred, Lord Tennyson wrote Becket, a play about Thomas Becket and Henry II. -->、[[T・S・エリオット]]の詩劇『{{仮リンク|寺院の殺人|en|Murder in the Cathedral}}([[1935年]])』<ref>T. S. エリオット、高橋康也 訳 『寺院の殺人』 リキエスタの会、2001年</ref>や[[ジャン・アヌイ]]の戯曲とそれを原作とする[[1964年]]の映画『[[ベケット (映画)|ベケット]]』がある<ref name="jiten" />。
 
== 脚注 ==