「米原駅」の版間の差分

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彦根以南の路線を持っていた近江鉄道は北陸本線や東海道本線急行列車の利用客の利便を図って自路線の利用を促進させるため[[1926年]](大正15年)11月に米原 - 彦根に鉄道付設免許を申請し、[[1927年]]([[昭和]]2年)8月に免許が交付された{{Sfn|米原町史編さん委員会|2002|p=978}}。そして、1929年(昭和4年)6月に着工し、1931年(昭和6年)3月に開業した{{Sfn|米原町史編さん委員会|2002|p=978}}。なお、長浜町(当時)の要請を受けて長浜 - 米原の延伸も計画されたが、冬季の降雪や国鉄の横断工事での工事費から実現しなかった{{Sfn|米原町史編さん委員会|2002|p=978}}。
 
1923年の改良以降、米原駅構内を改良する計画は[[1937年]](昭和12年)から[[1938年]](昭和13年)にかけて立案され、[[1940年]](昭和15年)に用地買収と[[土工]]着手に取り掛かってきたが、[[第二次世界大戦]]によって工事が中断していた{{Sfn|日本国有鉄道岐阜工事局|1970|p=328}}。戦時中は駅が[[空襲]]の対象になることが予想され、機関区の転車台が破壊された時に備えた機関車の方向転換ができる三角線が設置され、列車を空襲から守るための列車壕(後に蒸気機関車避難壕として保存)も着工された{{Sfn|辻良樹|2007|p=94}}<ref>辻󠄀 良樹『旧蒸気機関車避難壕の整備が完成』「鉄道ピクトリアル」(鉄道図書刊行会)2010年1月号 P144~P145</ref>も着工された{{Sfn|辻良樹|2007|p=94}}
 
東海道本線は、1894年(明治27年)の時点で発着する列車は全て各駅停車で、その本数は7本に過ぎなかった{{Sfn|米原町史編さん委員会|2002|p=995}}。しかし、[[1940年]](昭和15年)に至るまでに約5倍の本数の列車が発着するようになった{{Sfn|米原町史編さん委員会|2002|p=995}}。[[1896年]](昭和29年)9月には急行列車1往復が運転されるようになり、[[1903年]](明治36年)の時点では2本に増加していた{{Sfn|米原町史編さん委員会|2002|p=995}}。[[1906年]](明治39年)4月に運行開始された最急行列車も米原駅に停車した{{Sfn|米原町史編さん委員会|2002|p=995}}。その後、鉄道国有化を経て長距離輸送が盛んとなったため急行列車は増加を続け、大正末から昭和初期には米原駅停車の列車の3分の1程度が急行列車だった{{Sfn|米原町史編さん委員会|2002|pp=995-996}}。米原駅は北陸本線との結節点としていずれの列車も停車していたが、[[1930年]](昭和5年)10月に運行開始した[[つばめ (列車)|燕]]が初めての通過列車となった{{Sfn|米原町史編さん委員会|2002|p=996}}。この当時は東京・京阪神での出発・到着時刻より早朝・深夜に発着する列車が少なくなく、普通列車も毎時発着とはならず日中でも2時間程度間隔があることがあった{{Sfn|米原町史編さん委員会|2002|p=997}}。