「第二次日韓協約」の版間の差分

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一編集希望者さんが提示していた出典を実際に確認したところ、一編集希望者さんの記述とは正反対の内容が書かれていました。[https://www.jkcf.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/10/3-allj.pdf]
いわゆる「国璽捺印」の不当による条約無効の言説は、学術的には否定されています。[https://www.jkcf.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2019/11/01-0_j.pdf] (「日韓間の諸条約の問題―国際法学の観点から」P15)
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==== 戦前語られていた様子 ====
条約締結当時に京城日本人居留民長だった中井錦城は、条約から10年後の著書<ref>{{Cite web|title=朝鮮回顧録 - 国立国会図書館デジタルコレクション|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950960/105|website=dl.ndl.go.jp|accessdate=2021-09-07|language=ja}}</ref><ref name=":0" group="注釈" >ただし海野福寿は、これは条約調印後の祝賀会で伊藤・長谷川が酔って話したのを中井が聞いたのだろうとする(海野福寿「外交史料韓国併合(上巻)288頁)。祝賀会については中井の著書182・183頁を以下引用する。

「遂に調印を了した。それから数日の後、京城仁川連合して大使を花月楼に招待した…大使は非常に酩酊されて、大分新条約の自慢話が出た、すると陪席だった長谷川大将が怒り出し、自分を捕まへて、何だ伊藤が、新条約締結を己れ一人の功にしゐる、決して伊藤一人の功ではないぞ、伊藤をこゝへ連れて来いと、自分は漸くの事で大将を宥め、大使と同伴して帰らした、そして大将不平の事を其時林公使に話した、数日後長谷川大将にも林公使にも、新条約締結の功労に対して詔勅が下った。</ref>でこう述べている。{{Quotation|談判依然として捗取らないので、(長谷川)大将は参政大臣と外部大臣を指し、憲兵隊長に向って何事をか命令すると、日本語の分る大臣は、之を聞て戦慄した、此場の状況を看て取った、大臣の末席文部大臣李完用は、今日の時勢已を得ないから、新条約を承認しては如何と、始て口を切った。|中井錦城「朝鮮回顧録」182頁}}また[[西四辻公堯]]は1930年の著書「韓末外交秘話」で「所謂朝鮮人の併合観なり」<ref>{{Cite book|和書|title=外交史料韓国併合(上巻)|year=2003|publisher=不二出版|author=海野福寿編|page=289|quote=その序文には「韓国末期ノ枢機に参画セル朝鮮歴々ノ回顧談ヲ骨子として余が特に纂録せしめたる処にして、所謂朝鮮人の併合観なり」とある。西四辻が伝聞や聞き取りをもとにして物語風に仕立てた二次史料というべきである。}}</ref>と前置きしつつこう描写している<ref>{{Cite book|和書|title=外交史料韓国併合(上巻)|year=2003|publisher=不二出版|page=392|author=海野福寿編}}</ref>。{{Quotation|こうして皇帝の聖断を暫く待って居る間に、突然、韓参政大臣が声を掲げて哀号しだし、遂に別室に連れ出された。此時、伊藤侯は他を顧みて、「余り駄々を捏ねる様だったら殺ってしまへ」と大きな声で囁いた。然るに愈々御裁可が出て調印の段となっても、参政大臣は依然として姿を見せない。そこで誰かが之を訝ると、伊藤侯は呟く様に「殺っただらう」と澄している。列席の閣僚中には日本語を解する者が二、三人居て、之を聞くと忽ち其隣へ其隣へと此事を囁き伝へて、調印は難なくバタバタと終ってしまった。|}}[[海野福寿]]は西四辻記述について「二次史料」としつつも、中井記述と「共通する筋立て」<ref name=":6">{{Cite book|和書|title=外交史料韓国併合(上巻)|year=2003|publisher=不二出版|page=289|author=海野福寿編}}</ref>であり、「伊藤や[[長谷川好道|長谷川駐箚軍司令官]]が脅迫的言辞を弄したことを否定するものではない」<ref name=":6" />としている。
 
=== 日本軍の包囲・監視 ===
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また林公使は王宮内各所にスパイを配置して韓国側の動きを報告させたと述べている(林公使回想<ref>{{Cite book|和書|title=わが七十年を語る|year=1935|publisher=第一書房|page=226|quote=わたしは予め、かうした会議の間でも王様の大奥の方で、どんな企てを巡らされてゐるかを刻々知る必要があるので、ちゃんと人を配置させておいた。その密使が、そのたそがれの通り魔の刻に、かういふ報告を齎した。}}</ref>)。
 
=== 調印に必要な印章を誰がどう入手したか ===
条約締結には調印が必要だが、韓国王宮内には印章が無かった。上海の英字紙チャイナ・ガゼットは調印後11月23日夕刊で日本側が印章を強奪したと報じ<ref>{{Cite web|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/38-1.html|title=日本外交文書デジタルアーカイブ第38巻第1冊(明治38年/1905年)「11 日韓協約締結並統監府設置ノ件 附 在韓各国公使館撤廃ノ件」550・551頁「日韓協約調印事情に関する新聞記事に付報告の件」|accessdate=2021年9月7日|publisher=外務省外交史料館|quote=本日二十三日夕発刊チャイナ、ガゼットに京城電報として左の意味の長文電報を掲載せり。本日十七日日本公使等は保護条約に調印せしむる為め宮中に伺候せるも皇帝始め内閣員は極力之に反抗し調印を拒むより午後八時伊藤侯爵は林公使の請により長谷川大将と共に日本兵及巡査の一隊を率ひ宮中に赴きたるも尚ほ成功の望みなく遂に憲兵隊を外務大臣官邸に派し翌十八日午前一時外交官補沼野は其官印を奪ひ宮中に帰り紛擾の末同一時半日本全権等は擅に之を取極書に押捺し其調印済となりたることを内閣員に宣言せり。而して皇帝は尚ほ国璽の押捺を拒みしも日本の強圧に威怖し遂に調印するに至れるものにして実に之が調印は詐術を以て為されたるものなりと}}</ref>、具体的に「沼野(安太郎)」の名を挙げている。ベルリン紙ロカール・アンツァイゲル<ref>{{Cite web|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/38-1.html|title=日本外交文書デジタルアーカイブ第38巻第1冊(明治38年/1905年)「11 日韓協約締結並統監府設置ノ件 附 在韓各国公使館撤廃ノ件」554・555頁「日本は韓帝及初代人を強圧して日韓協約に調印せしめたりとの新聞報道に関する件」|accessdate=2021年9月7日|publisher=外務省外交史料館|quote=伯林ロカール、アンツァイゲル新聞は左の意味の記事を掲載せり。時事に精通せる方面より得たる報道に拠れば十一月十九日には京城に於て一大惨劇演出せられたり。当日伊藤侯は林公使長谷川大将と共に日本兵一大部隊を随へて参内し韓帝をして同侯等に於て予め調製し置きたる新協約案に記名せしめたり。而して韓国諸大臣は自国の独立を奪去する所の文書に国璽を鈐することを避けむが為王城より奔逃せしに日本兵の為に追躡引致せられ強て鈐璽せしめられたり。此の暴挙は韓国民の間に騒擾を惹起せり。}}</ref>も国璽に関する問題を取り上げた。
 
林公使は11月28日付文書でその2つの海外報道に反論し、韓国側保管者が印章を宮中に持ってきたと述べている<ref>{{Cite web|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/38-1.html|title=日本外交文書デジタルアーカイブ第38巻第1冊(明治38年/1905年)「11 日韓協約締結並統監府設置ノ件 附 在韓各国公使館撤廃ノ件」556・557頁「日韓協約調印情況に関する新聞報道に関連し実情報告の件」|accessdate=2021年9月7日|publisher=外務省外交史料館|quote=条約書には各大臣列席の上外部大臣朴斉純自ら署名を署し且つ印章を捺押したり。外部大臣は条約各項を議了したる後其署名をなすに先ち印章を持ち来る様外部に数回電話を掛けたるも印章の保管者たる秘書課長不在の為印章は二時間後れて初めて保管者により宮中に持ち来られたり。}}</ref>。しかし林は後年の回想<ref>{{Cite web|title=わが七十年を語る - 国立国会図書館デジタルコレクション|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1878301/128|website=dl.ndl.go.jp|accessdate=2021-09-07|language=ja|quote=「それからもう一つのことは邸璽です。国の印形といふものは非常に大切にしてあるものと見えて、宮内大臣と雖も自ら持ってゐません。別に邸璽を預ってゐる責任の司が居ります。それで、わたしは外務省に早朝から人をやって、その邸璽保持官を見張ってゐねばなりません。|page=224}}</ref>では印章保管者を見張らせたと打ち明けている。
 
中井錦城は、沼野が印章を自宅に持ち帰っていてそれを宮中に持ってきたと述べている<ref>{{Cite book|和書|title=朝鮮回顧録|year=1915|publisher=糖業研究会出版部|page=182|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950960/105|quote=間もなく調印の場合となると、外部大臣は其印を取て堀の中へ投ずる積りであったが、沼野外部御傭が其印を自宅へ持て帰ってゐたので、其志を達するを得ず、沼野氏は電話に応じて宮中に入り、遂に調印を了した。}}</ref><ref group="注釈" name=":0">ただし海野福寿は、これは条約調印後の祝賀会で伊藤・長谷川が酔って話したのを中井が聞いたのだろうとする(海野福寿「外交史料韓国併合(上巻)288頁)。祝賀会については中井の著書182・183頁を以下引用する。
 
「遂に調印を了した。それから数日の後、京城仁川連合して大使を花月楼に招待した…大使は非常に酩酊されて、大分新条約の自慢話が出た、すると陪席だった長谷川大将が怒り出し、自分を捕まへて、何だ伊藤が、新条約締結を己れ一人の功にしゐる、決して伊藤一人の功ではないぞ、伊藤をこゝへ連れて来いと、自分は漸くの事で大将を宥め、大使と同伴して帰らした、そして大将不平の事を其時林公使に話した、数日後長谷川大将にも林公使にも、新条約締結の功労に対して詔勅が下った。</ref>。
 
==== スチーブンス銃撃事件 ====
1908年に韓国外交顧問[[ダーハム・W・スティーブンス|スチーブンス]]が韓国人独立運動家[[張仁煥]]らに銃撃され死亡したが、その裁判で被告側は、被害者らが国璽を横奪したと主張した<ref>{{Cite web|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/41-1.html|title=日本外交文書デジタルアーカイブ第41巻第1冊(明治41年/1908年)20「韓国外交顧問『スチーヴンス』遭難一件」843頁「『スチーヴンス』殺害犯人張仁煥裁判状況報告の件」|accessdate=2021年9月7日|publisher=外務省外交史料館|quote=韓国の此の窮状に陥るは一にス氏の奸策によるものにして、証人の言に徴するに彼等は日韓条約訂結に際し国璽を横奪して擅に之を約書に鈐し韓国千載の恥を胎す。彼は名を韓国顧問に借り陰に陽に日本を佐けて尽さざる所処なく、韓国独立の滅亡は実に彼の手によって画せらる。}}</ref>。そして韓国外交顧問補佐官<ref>{{Cite web|url=https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A04010086300|title=外交官補沼野安太郎韓国政府ノ聘用ニ応シ俸給ヲ受ケ明治三十七年勅令第百九十五号ニ依リ在職者ニ関スル規定適用ノ件|accessdate=2021年9月7日|publisher=国立公文書館アジア歴史資料センター|quote=号外 外交官補沼野安太郎 右今般韓国外交顧問補佐官として同国政府の聘用に応ずる許可を与ヘ候処…(4画像目)}}</ref>としてスチーブンス側近だったのがチャイナ・ガゼット紙報道に出てきた沼野である。
 
スチーブンスは井上馨外務卿の秘書官など務めた経験があり<ref>{{Cite book|和書|title=伊藤博文と韓国併合|year=2004|publisher=青木書店|page=34|author=海野福寿}}</ref>、1904年に日本が推薦して以降、韓国外交顧問を務めており、契約書によれば韓国の全ての外交文書を閲覧する権限を有し、また韓国は全ての外交案件について予めスチーブンスの同意を得る必要があった<ref>{{Cite web|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/37-1.html|title=日本外交文書デジタルアーカイブ第37巻第1冊(明治37年/1904年)「6 日韓協約締結ノ件 附 韓国ニ於テ財政外交顧問招聘ノ件」|accessdate=2021年9月29日|publisher=外務省外交史料館|quote=契約書の和訳文 第二条 スチーヴンスは韓国外交に関する一切の往復文書及其他の書類を故障なく閲覧することを得、前条に記載せる一切の外交上及其の他の案件は必ず予めスチーヴンスの同意を経て処理せらるべきものとす。|page=380}}</ref>。
 
伊藤博文の日記<ref>{{Cite web|title=한국사데이터베이스|url=http://db.history.go.kr/item/level.do?setId=1&totalCount=1&itemId=jh&synonym=off&chinessChar=on&page=1&pre_page=1&brokerPagingInfo=&position=0&levelId=jh_025_0070_0040|website=db.history.go.kr|accessdate=2021-09-07}}</ref>によると、スチーブンスは条約交渉開始前の11月10日に伊藤を訪問、16日に林公使の晩餐会に出席、調印後20日には米国公使館の晩餐会で伊藤・林と同席している。沼野は10日に(スチーブンスに付いて?)伊藤を訪問、13日の韓国側の晩餐会で伊藤・林と同席している。また条約交渉前に韓国は第二回日英同盟協約の韓国条項について日英両国に抗議していた<ref name=":5" />(→[[第二次日韓協約#韓国側の反対・排日の動き]])が、その際韓国は「英国公使宛のものは同外交官補(※沼野)に秘して発送したるものなる可し」と沼野に知らせておらず、沼野を警戒していた可能性がある。
 
 
以上の経緯から、海野福寿は「韓国保護条約の強要」<ref>{{Cite book|和書|title=伊藤博文と韓国併合|year=2004|publisher=青木書店|page=51|author=海野福寿}}</ref>「両国対等の立場で合意妥結したのではなく、強制締結といわなければならない」としている<ref>{{Cite book|和書|title=外交史料韓国併合(上巻)|year=2003|publisher=不二出版|page=284}}</ref>。
 
伊藤之雄は「韓国に第二次日韓協約を強いて、外交権を奪い」と表現している<ref>{{Cite book|和書|title=伊藤博文をめぐる日韓関係|year=2011|publisher=ミネルヴァ書房|page=27|author=伊藤之雄}}</ref>。
 
== 条約全文と内容 ==