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*1970年 東日本日雇労働組合(東日労)に加わり、東日労内部の造反派である山岡強一と知り合う。<ref>船本洲治『黙って野たれ死ぬな』株式会社共和国発行、2018年、p.346.360-361</ref>。山岡は山谷争議団を結成して山谷の労働運動を主導した人物で、船本思想の最大の理解者となる<ref>崎山 政毅「武装する根拠に到ること-山岡強一が遺した歴史性の作業をめぐって」インパクト出版会 編集発行『インパクション = Impaction』 (99)、1996年10月、pp.31-43</ref>
*1971年末、船本は停滞していた活動を総括する論文「自己批判と闘いの開始の意味をこめて」を書き、山谷の運動-暴動の現状を3期区分し、労働者の現実を理解しさらに次の段階、山谷暴動→山谷権力を構想した。本論文の署名は谷山・ガンとしている<ref >船本洲治『黙って野たれ死ぬな』れんが書房新社、1985年、p.185-188,241</ref>
*1972年
:同じ時期に山谷でも悪質業者追放現場闘争委員会(現闘委)が組織され東西の寄せ場で競うように対悪徳手配師闘争が行われる。釜ヶ崎では悪徳手配師の背後にいる暴力団とも対決している<ref >船本洲治『黙って野たれ死ぬな』株式会社共和国発行、2018年、pp.347-349</ref>。指名手配され姿を隠しながらも船本は論文やビラ(檄文)を次々に発し11月にはビラ「黙って野たれ死ぬな」を撒く。11月関西建設闘争で釜ヶ崎の活動家33人逮捕、12月あいりん総合センターが爆破される<ref >船本洲治『黙って野たれ死ぬな』株式会社共和国発行、2018年、pp.299-303,347-349</ref>。
*1973年、釜共闘や現闘委
*1974年初頭 東京を経て沖縄へ。以後沖縄を拠点とする<ref >船本洲治『黙って野たれ死ぬな』株式会社共和国発行、2018年、p.351</ref>。3月、あいりん総合センター爆破事件の主犯の容疑で警察庁からも重要犯人として全国指名手配され<ref group="註">船本自身やその仲間たちはそれらの容疑は警察のでっち上げだと主張している。あいりん総合センター爆破事件で船本の共犯とされた者は1983年無罪判決が確定している
*1975年。5月東アジア反日武装戦線のメンバーが一斉に逮捕される(船本と東アジア反日武装戦線との関係については後述)。6月25日船本は皇太子[[明仁]]の[[沖縄国際海洋博覧会|海洋博]]訪問を控えた沖縄にて皇太子暗殺を企てるも単独行動となった船本にその力はなく暗殺は断念、代わりに抗議行動として、アメリカ軍[[嘉手納基地]]ゲート前にて「海洋博反対」「皇太子訪沖反対」などを叫びつつガソリンをかぶって焼身自殺した<ref >船本洲治『黙って野たれ死ぬな』株式会社共和国発行、2018年、pp.287-291、326-335、353</ref><ref>朝日新聞大阪朝刊昭和50年6月27日p.1</ref>。元釜共闘の風間竜次は船本が単独で焼身決起しなければならなかった理由の一つに釜ヶ崎や山谷の組織が堅固なものではなかったことと、オイルショック後の不況によって従来のような日雇いの仕事が減り、寄せ場内での分断が起こっていたことなどを挙げ「地域性(特殊性)、世界性(普遍性)の思想的剥離と組織不備が船本を放置、孤立化、単身者にしてしまった。-風間竜次「決起40年記念 船本洲治」日本寄せ場学会編集『寄せ場』(27)p.140-141」と述べている<ref>風間竜次「決起40年記念 船本洲治」日本寄せ場学会編集『寄せ場』(27)p.140-141</ref>。新聞には「大阪府警は船本が潜伏活動に疲れて自殺したと見ている」と書かれている<ref>朝日新聞大阪朝刊昭和50年6月27日p.1</ref>。7月、釜ヶ崎で船本洲治人民葬<ref >船本洲治『黙って野たれ死ぬな』株式会社共和国発行、2018年、p.353</ref>。
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