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| 画像 = Mauroy2.jpg
| 国略称 = {{FRA}}
| 年月日 = {{死亡年月日と年齢|1928|7|5|2013|6|7no}}
| 出生地 = [[ファイル:Flag_of_France_(1794–1815,_1830–1958).svg|border|25px]] [[フランス第三共和政|フランス]] [[ノール県]]カルティニー
| 没年月日= {{死亡年月日と没年齢|1928|7|5|2013|6|7}}
| 死没地 = {{FRA}} [[オー=ド=セーヌ県]]クラマール
| 所属政党 = [[社会党 (フランス)|社会党]](PS)
| 配偶者 = ジルベルト・デボウト<br>(1951年5月 - 2013年6月)
| 子女 = 1人
| 出身校 = カシャン国立通常学校
| サイン =
 
| 国旗 =
| 職名 =
| 内閣 =
| 選挙区 =
| 当選回数 =
| 就任日 =
| 退任日 =
| 元首職 =
| 元首 = <!-- ↓省略可↓ -->
| 職名国旗2 =
| 就任日職名2 =
| 退任日内閣2 =
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| 元首当選回数2 =
| 職名3 就任日2 =
| 退任日3 2 =
| 退任日3 元首職2 =
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| 当選回数3 =
| 就任日3 =
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| 職名4 =
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| 就任日5 = [[1981年]][[5月21日]]
| 退任日5 = [[1984年]][[7月17日]]
| 元首職5 = 大統領
| 元首5 = [[フランソワ・ミッテラン]]
| その他の職歴1 =
| 就任日6 =
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| 元首職7 =
| 元首7 =
| 生年月日 = [[1928年]][[7月5日]]
| 出生地 = [[ファイル:Flag_of_France_(1794–1815,_1830–1958).svg|border|25px]] [[フランス]] [[ノール県]]カルティニー
| 没年月日= {{死亡年月日と没年齢|1928|7|5|2013|6|7}}
| 死没地 = {{FRA}} [[オー=ド=セーヌ県]]クラマール
| 所属政党 = [[社会党 (フランス)|社会党]](PS)
| 配偶者 = ジルベルト・デボウト
| 子女 = 1人
| 出身校 = カシャン国立通常学校
| サイン =
}}
'''ピエール・モーロワ('''<ref>モロワ)'''とも言う。</ref>フランス語:{{lang|-fr|'''Pierre Mauroy'''}}、<small>[http://ja.forvo.com/word/pierre_mauroy#fr 発音例]</small>、[[1928年]][[7月5日]] - [[2013年]][[6月7日]])は、[[フランス]]の[[政治家]]。[[社会党リール (フランス)|社会党リール]]の闘士で市長[[フランソワ・ミッテラン]]政権にて第8代[[フランスの首相#フランス第五共和政|首相]]、社会党第一書記などを歴任した。なお[[社会党 (フランス首相)|社会党]]を務めの闘士であった。
 
==経歴==
1928年7月5日に北フランスの[[ノール県]]カルティニーに誕生する。パリ南部近郊[[カシャン]]にある師範学校 ({{fr|École normale nationale d'apprentissage}}) の研修生を経て教職に就いていたが、[[1950年代]]から[[社会主義]]運動に参加、社会主義青年運動と技術教員組合で活動する。その後ノール県の社会主義組織で頭角を現し、[[1966年]]には[[フランス社会党 (SFIO)|旧フランス社会党]](SFIO)({{fr|SFIO}})で、党書記長で後に首相を務めた[[ギー・モレ]]に続く党内ナンバー2となる。
 
[[1968年]]6月の総選挙と[[1969年]]6月の大統領選挙で左翼陣営は敗北を喫し、体制の立て直しを余儀無くされた。[[1971年]]6月のエピネー大会で社会主義者は大同団結し、[[社会党 (フランス)|新フランス社会党]](PS({{fr|PS}}。以下社会党)を結成した。モーロワは第一書記にフランソワ・ミッテランを支持し、党内序列ナンバー2になった。社会党結成の2年後に行われた[[1973年]]1月に[[リール (フランス)|リール]]市長選挙に立候補して当選すとなる。
 
===首相===
[[1968年]]の総選挙と[[1969年]]の大統領選挙で左翼陣営は敗北を喫し、体制の立て直しを余儀無くされた。[[1971年]]のエピネー大会で社会主義者は大同団結し、[[社会党 (フランス)|新フランス社会党]](PS。以下、社会党)を結成した。モーロワは第一書記にフランソワ・ミッテランを支持し、党内序列ナンバー2になった。社会党結成の2年後に行われた[[1973年]]の[[リール (フランス)|リール]]市長選挙に立候補して当選する。
[[1979年]]4月[[メス大会]]では反ミッテランの[[ミシェル・ロカール]]と共同戦線を張るが、[[1981年フランス大統領選挙]]では、ミッテラン陣営のスポークスマンとしてミッテラン当選に貢献したことが認められて首相に就任した。モーロワ内閣の業績として、週39時間労働60歳定年制賃上げなどがげられる。もっともモーロワは伝統的な社会主義的経済政策の限界を早くから悟り、社会主義的経済政策の放棄を主張した。[[1984年]]7月に私立学校への補助金を削減できなかったことが政治問題化し、責任をって総辞職した。
 
===首相退任後===
[[1979年]]の[[メス大会]]では、反ミッテランの[[ミシェル・ロカール]]と共同戦線を張るが、[[1981年フランス大統領選挙]]では、ミッテラン陣営のスポークスマンとしてミッテラン当選に貢献したことが認められて首相に就任した。モーロワ内閣の業績として、週39時間労働、60歳定年制、賃上げなどが上げられる。もっともモーロワは伝統的な社会主義的経済政策の限界を早くから悟り、社会主義的経済政策の放棄を主張した。[[1984年]]私立学校への補助金を削減できなかったことが政治問題化し、責任をとって総辞職した。
[[1988年]]5月に社会党第一書記に選出される。党首としては党内各派の対立緩和に動いた。[[ミシェル・ロカール|ロカール]]派とミッテランの後継者である[[リオネル・ジョスパン]]の派が党内における基盤であった。
 
[[1992年]]9月に[[社会主義インターナショナル]]議長に選出され[[19981999年]]11月まで務めた。この他1992年10月からフランス[[上院]](元老院議員に選出された。[[2007年フランス大統領選挙]]では、[[セゴレーヌ・ロワイヤル]]を支持している。
[[1988年]]に社会党第一書記に選出される。党首としては党内各派の対立緩和に動いた。[[ミシェル・ロカール|ロカール]]派とミッテランの後継者である[[リオネル・ジョスパン]]の派が党内における基盤であった。
 
[[2013年]][[6月7日]]に[[クラマール]]の病院にて、84歳で死去した<ref>[http://www.asahi.com/obituaries/update/0607/TKY201306070319.html ピエール・モーロワさん死去 仏元首相、核実験に反対] 朝日新聞 2013年6月7日</ref>。84歳であった
[[1992年]]に[[社会主義インターナショナル]]議長に選出され[[1998年]]まで務めた。この他、1992年からフランス[[上院]](元老院)議員に選出された。[[2007年フランス大統領選挙]]では、[[セゴレーヌ・ロワイヤル]]を支持している。
 
==家族==
[[2013年]][[6月7日]]に[[クラマール]]の病院で死去<ref>[http://www.asahi.com/obituaries/update/0607/TKY201306070319.html ピエール・モーロワさん死去 仏元首相、核実験に反対] 朝日新聞 2013年6月7日</ref>。84歳であった。
1951年5月にジルベルト・デボウトと結婚し<ref>[https://gw.geneanet.org/wikifrat?lang=en&pz=renee+dawn&nz=de+joussineau+de+tourdonnet&p=pierre&n=mauroy ピエール・モーロワの家系図]</ref>、1人の子女が誕生した。
 
== 脚注 ==