「広島県産業奨励館」の版間の差分

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ここができる前まで市内では、明治期に開設された「広島県博物館」か旧広島藩主浅野氏の私立美術館である「[[広島県立美術館#観古館|観古館]]」{{efn2|現在の[[広島県立美術館]]の場所にあった。}}が博物・美術展示施設として用いられていたが、大正期以降はここと[[広島高等師範学校]][[広島文理科大学 (旧制)#教育博物館「永懐閣」|附属教育博物館(永懐閣)]]が用いられるようになった{{r|NDLJP1233508}}。開館翌年となる1916年(大正5年)広島県美術協会が設立されると、県美術展覧会の会場として毎年用いられた{{Sfn|原爆戦災誌2|1971|p=28}}。広島市主催の博覧会・共進会では第2会場として用いられていた{{Sfn|原爆戦災誌2|1971|p=28}}。1930年代ぐらいまで比較的自由な雰囲気の下で数々の展示会が行われていたという{{Sfn|矢田部|2017|p=631}}。広島平和資料館学芸課の菊楽忍がまとめた「広島県物産陳列館年表」によると、展覧会・品評会・展示即売会と名のつく催しだけで、30年間に180回ほど(6回/1年)開催されていた{{Sfn|矢田部|2017|p=631}}。
 
そして建物の特徴から広島の名所の一つとなり、名所案内の絵葉書が数多く作られた{{Sfn|矢田部|2017|p=631}}{{r|rijo21}}。当時近所に住んでいた人物によると、1階で映画が上映されていた、広い庭園でビー玉やメンコ遊び、元安川で泳いだ後建物の塀に上がって涼んでいた、という{{r|chugoku20210514}}。