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|画像説明=
|国略称= {{USA}}
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1921|2|11|no}}
|出生地= {{USA1912}} [[テキサス州]][[ミッション_(テキサス州)|ミッション]]
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1921|2|11|2006|5|23}}
|死没地 = {{USA}} [[テキサス州]][[ヒューストン]]
|子女=3人
|出身校= [[テキサス大学オースティン校]]
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|称号・勲章= 法学士([[テキサス大学オースティン校]])<br/>アメリカ空軍殊勲十字章<br>航空勲章
|親族(政治家)=
|配偶者= ベリル・アン・ロンジーノ<br>(1943年11月 (1943‐2006)- 2006年5月)
|サイン= Lloyd Bentsen sig.jpg
 
|国旗=
|職名= {{USA}}<br/>第69代[[アメリカ合衆国財務長官|財務長官]]
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|所属組織= [[アメリカ陸軍航空隊]]<br/>[[アメリカ空軍]]
|部隊= 第449爆撃隊(第15空軍)<br>[[空軍予備役軍団|アメリカ空軍予備役軍団予備役]]
|軍歴= 1942年6月 - 19471945年2月
|戦闘= [[第二次世界大戦]]
|最終階級= 大佐
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|墓所= {{USA}} [[テキサス州]][[ヒューストン]]<br/>フォレストパーク・ラウンデール墓地
}}
'''ロイド・ミラード・ベンツェン・ジュニア'''({{Lang-en|Lloyd Millard Bentsen, Jr.}}、[[1921年]][[2月11日]] - [[2006年]][[5月23日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[政治家]]。[[ビル・クリントン]]政権1993年1月から1994年12月ま第69代[[アメリカ合衆国財務長官|財務長官]]を務めた。、それ以前は[[アメリカ合衆国下院|連邦下院議員]]、[[アメリカ合衆国上院|連邦上院議員]]、[[アメリカ合衆国上院|上院]]では上下両院合同の経済問題委員会の委員長、金融委員長を歴任した。[[1988年アメリカ合衆国大統領選挙]]での[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]候補であった。
 
== 生涯略歴 ==
===生い立ち及び軍歴===
1921年2月11日に[[テキサス州]][[ミッション (テキサス州)|ミッション]]に誕生する。祖父母は[[デンマーク]]からの移民であった。[[長老派教会]]([[バプテスト]]として成長)である<ref>{{cite news |title=Candidates Share Similar Beliefs |newspaper=San Jose Mercury News |date=September 10, 1988 |url=http://nl.newsbank.com/nl-search/we/Archives?p_product=SJ&s_site=mercurynews&p_multi=SJ&p_theme=realcities&p_action=search&p_maxdocs=200&p_topdoc=1&p_text_direct-0=0EB72E6054CF6E54&p_field_direct-0=document_id&p_perpage=10&p_sort=YMD_date:D }}</ref>。幼少時は[[ボーイスカウト]]イーグルスカウト賞を受賞している。1942年5月にテキサス大学法律学校を卒業し<ref>[https://www.findagrave.com/memorial/14377837/lloyd-millard-bentsen ロイド・ベンツェンの墓]</ref>19446月から1945年2月まで[[アメリカ陸軍]]航空隊で軍務に就く。[[ブラジル]]での短期勤務後にパイロットとなり、って1944年前半11月に第449爆撃隊に所属し<ref>[https://airforce.togetherweserved.com/usaf/servlet/tws.webapp.WebApp?cmd=ShadowBoxProfile&type=PersonAssociationExt&ID=22557 ベンツェン、ロイド・ミラード・ジュニア]</ref>、B-24に搭乗して[[イタリア王国|イタリア]]南部へ出撃している。23歳でこの時に[[少佐]]に昇進し、600名の部隊を指揮した。
 
=== 軍人としての経歴 ===
1年と半年に渡る従軍の中でベンツェンは35の危険なミッションを遂行した。それらは困難で、基地から遠く離れておりなおか尚且つ高度に防衛された拠点をターゲットにしたものであった。その中には[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]の戦略上重要であった[[ルーマニア王国|ルーマニア]]のプロエスティ油田が含まれている。第449爆撃隊が属していた第15空軍は大陸におけるドイツの陸上部隊の燃料の半分以上を賄うこの地域の石油関連施設を破壊する目的で創設されたためである。
 
またベンツェンの部隊はドイツ・イタリア・[[オーストリア]]・[[チェコスロバキア]]・[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー王国]]・ルーマニア・[[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]]にある通信基地・航空機製造工場・産業拠点などを爆撃した。また[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍の[[アンツィオの戦い|アンツィオ上陸作戦]]や[[ドラグーン作戦|南フランス上陸作戦]]を援護するために数多くの爆撃を行っ実施した。アメリカ陸軍航空隊に所属していた時期にベンツェンは全ヨーロッパで行わ実施されたおよそ200の爆撃作戦に参加した。
 
ベンツェンは空軍殊勲十字章を授けられた。これは当時の陸軍航空隊(現在の[[アメリカ空軍]])にあって、傑出した行動・功績を残したパイロットに与えられる最高の栄誉の1つである。これに加えて航空勲章を授けられている。退役を目前にして大佐に昇進した。
 
=== 政界での経歴 ===
戦後のベンツェンは故郷の[[リオ・グランデ川|リオグランデ]]谷地方へ戻った。[[1946年]]には[[ヒダルゴ郡 (テキサス州)|ヒダルゴ郡]]の判事に就任した。ただしこの職務は裁判官というよりは郡政委員会の長であり、行政官に近いものであった。[[1948年]]には下院議員選挙に立候補し、12月から1955年1月まで連邦下院議員を3期6年務めた。[[1954年]]11月の選挙では立候補せず、ビジネス界に入る事になる。
 
16年間に渡ってベンツェンは[[ヒューストン]]で金融業界に深く関わった。1970年まで[[投資信託]]企業であるリンカーン・コンソリデイティッドの社長を務めた。[[1970年]]に現職の[[ラルフ・ヤーボロー]]上院議員に挑戦し、民主党予備選挙に立候補する。比較的保守派であると思われていたベンツェンがリベラル派で知られたヤーボローの対立候補として、民主党内の保守派・穏健派に担がれた格好となった。これに先立ち、ベンツェンは全ての経営者としてのポストを辞任する事となる。予備選挙で勝利したベンツェンは本選挙で[[共和党 (アメリカ)|共和党]]候補の[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]元下院議員と争った。ベンツェンは巧みなメディア戦略とコミュニケーション能力で相手より信頼が置けまた大人物だと有権者に思わせることに成功した。一方ブッシュはこうした戦略や技術の面で劣っていた。この結果ベンツェンは勝利を収める事ができた。
 
[[19761971]]・[[19821月から1993]]・[[1988年]]とベンツェンは大差1月ま再選され連邦上院議員を務めた。1988年7月には民主党の副大統領候補に指名されたが、上院議員選挙にも立候補して両方での当選を目指した。これは[[1960年]]7月に[[リンドン・ジョンソン]]上院議員が副大統領候補に指名された際に上院議員としても再選を目指した先例に倣ったものである。
 
上院議員としてベンツェンは[[中道政治|中道]]のスタンスを取った。女性の権利を支持し、[[人工妊娠中絶]]や男女平等憲法修正条項(ERA)に賛成した。また[[ベトナム戦争]]については終始これを支持した。経済政策の分野ではビジネス界の利益を擁護し、リベラル派から見れば大企業側に立った。上院金融委員会で大いに活躍し同委員会を代表する大物議員であると言えた。最終的には委員長も経験した。さらに、通商政策ではアメリカの経常赤字・貿易赤字に対して敏感であり、1980年代の議会で対日強硬派の一翼を担った。1975年から1976年にかけては[[1976年アメリカ合衆国大統領選挙]]の民主党予備選挙に向けて指名獲得のために奔走した。このキャンペーンは有力候補の1人である[[ヘンリー・M・ジャクソン]]上院議員の票田を財界・金融界において侵食した。しかし全国的な候補者としては脱落し、党大会では地元である[[テキサス州]]の支持を得たものの、[[ジョージア州]]の[[ジミー・カーター]]前[[ジョージア州知事|州知事]]に敗北した。
 
==1988年アメリカ合衆国大統領選挙==
=== 副大統領候補 ===
[[1988年アメリカ合衆国大統領選挙]]でベンツェンは民主党の副大統領候補に指名された。大統領候補が北東部出身のリベラル派である[[マサチューセッツ州]]の[[マイケル・デュカキス]][[マサチューセッツ州知事|州知事]]であったために南部出身で中道派のベンツェンがバランスをるために選ばれたのである。また、多数の選挙人を抱えるテキサス州での勝利を確実にする狙いもあった。しかしながらこの目論見は見事に外れた。多くの人々はベンツェンを副大統領候補に選んだ事がデュカキスの敗因の1つであると考えている。これはベンツェンの方がデュカキスよりも遥かに政治家としてのキャリアがあり、経験を積んでいたからである。ベンツェンの方がより大統領候補らしいという強烈な印象を与え、大統領候補であるはずのデュカキスを霞ませてしまったのである。[[ウェストバージニア州]]の選挙人の1人はデュカキスに投票するはずのところをベンツェンに投票した。
 
=== 副大統領候補討論会 ===
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これは当時41歳のクエールはまだ若く、経験不足だと指摘されていた。その批判をかわすため、やはり若く経験の浅かったケネディを引き合いに出したのだが、ベンツェンはこれを見事にかわしたのだった。選挙の結果はブッシュ・クエール陣営の地滑り的勝利に終わった。他方でベンツェンは地元であるテキサス州での勝利をデュカキス陣営にもたらす事はできなかった。これはクエールの地元である[[インディアナ州]]で[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]陣営が大差で勝利したのとは対照的であった。
 
=== その後の経歴 ===
[[1993年]]1月20日にベンツェンは連邦上院議員を辞職し、ビル・クリントン政権に第69代[[アメリカ合衆国財務長官|財務長官]]に就任したが、ベンツェンの指名は後に民主党から非難される事になる。何故ならこれは結果として民主党の議席を共和党のケイ・ハッチソン前下院議員に明け渡す事となったからである。ベンツェンは1994年12月22日に財務長官を辞任したため、その任期は結果として短いものに終わった。従ってので、財務長官として際立った功績を挙げた訳では無い。しかし[[ビル・クリントン|クリントン]]政権として最初の予算案を審議が難航する中で議会で成立させるのに最大限の努力を払った。日本との関係では円高誘導発言をした事で知られる。この発言はその後急激な円高・ドル安を招いた原因の1つとされる。
 
[[1998年]]に発作に襲われ、以後は車椅子生活を余儀無くされる。しかしその後も[[1999年]]8月には文民としての最高の栄誉である[[大統領自由勲章]]を受章し、[[2004年]]には[[ホワイトハウス]]におけるクリントン夫妻の肖像画の除幕に参加するなど公式の場に姿を見せた。2006年5月23日[[テキサス州]][[ヒューストン]]の自宅にて85歳で死去した。85歳であった。
 
==ベンツェンに因んだもの==
[[1998年]]に発作に襲われ、以後は車椅子生活を余儀無くされる。しかしその後も[[1999年]]には文民としての最高の栄誉である[[大統領自由勲章]]を受章し、[[2004年]]には[[ホワイトハウス]]におけるクリントン夫妻の肖像画の除幕に参加するなど公式の場に姿を見せた。2006年にテキサス州ヒューストンの自宅で死去した。85歳であった。
国道59号線のうち、[[州間高速道路]]35号と州間高速道路45号の間の270マイル([[ラレド (テキサス州)|ラレド]]からヒューストン間)はロイド・ベンツェン上院議員ハイウェイと公式に付けられた。甥のケン・ベンツェン・ジュニアはテキサス州25区選出の連邦下院議員を[[1995年]]1月から[[2003年]]1月まで務め、[[2002年]]には民主党の上院議員候補となった。孫のロイド・ベンツェン4世は[[2004年アメリカ合衆国大統領選挙]]で[[ジョン・フォーブズ・ケリー]]上院議員のスタッフを務めた。
 
==家族==
国道59号線のうち、[[州間高速道路]]35号と州間高速道路45号の間の270マイル([[ラレド (テキサス州)|ラレド]]からヒューストン間)はロイド・ベンツェン上院議員ハイウェイと公式に名付けられた。甥のケン・ベンツェン・ジュニアはテキサス州25区選出の連邦下院議員を[[1995年]]から[[2003年]]まで務め、[[2002年]]には民主党の上院議員候補となった。孫のロイド・ベンツェン4世は[[2004年アメリカ合衆国大統領選挙]]で[[ジョン・フォーブズ・ケリー]]上院議員のスタッフを務めた。
1943年11月にベリル・アン・ロンジーノと結婚し<ref>[https://www.imdb.com/name/nm1374531/bio ロイド・ベンツェンの伝記]</ref>、3人の子女が誕生した。
 
==参照==