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'''蕭 象'''(しょう えんしょう、[[498]]<ref name=a/>不詳 - [[536年]])は、[[梁 (南朝)|南朝梁]]の[[皇族]]。桂陽敦王。[[字]]は'''世翼'''。蕭象『[[梁書]]』と『[[南史]]』叔父の[[蕭融李淵]]の嗣ですから避けて、名前には淵の字が含まれを象と表記していません<ref name=a>『梁桂陽國太妃墓誌銘』「天監十三年十月丙子朔廿日乙未薨……息男象、字世翼、襲封桂陽王、年十七。」</ref>
 
== 経歴 ==
[[蕭衍]]の長兄[[蕭懿]]の九男として生まれた。叔父の[[蕭融]]の後を嗣いで桂陽郡王に封じられた。交遊を好み、生母に対する孝行で知られた。寧遠将軍・丹陽尹を初任とした。官についてまもなく、義母(蕭融の妻、桂陽王太妃)の喪に服すために、職を辞した。服喪が終わると、再び明威将軍・丹陽尹をつとめた。宮殿育ちではじめて政務につきながら、失政がなかったので、朝廷に賞賛された。持節・都督司霍郢三州諸軍事・征遠将軍・[[郢州]][[刺史]]として出向した。まもなく都督湘衡二州諸軍事・軽車将軍・[[湘州]]刺史に転じた。湘州では猛獣の害が多かったが、象が赴任すると、途端に4匹の猛獣が死んだため、故老たちはみな徳政に感じいってたたえたといわれる。中書侍郎に任じられ、そのまま領石頭戍事を代行した。給事黄門侍郎に転じ、領軍を兼ね、またさらに宗正卿を兼ねた。まもなく[[侍中]]・太子詹事に転じたが、任を受けないうちに、持節・都督江州諸軍事・信武将軍・[[江州 (江西省)|江州]]刺史に任じられた。病のために赴任しなかった。まもなく太常卿に任じられ、侍中の位を加えられ、秘書監・歩兵校尉に転じた。[[大同 (梁)|大同]]2年([[536年]])、死去した。[[諡]]は敦といった。
 
子の蕭慥が後を嗣いだ。
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*『[[梁書]]』巻23 列伝第17
*『[[南史]]』巻51 列伝第41
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
{{DEFAULTSORT:しよう えんしよう}}
[[Category:中国南朝の人物]]
[[Category:蘭陵蕭氏|えんしよう]]
[[Category:498年年不明]]
[[Category:536年没]]