「寛平の治」の版間の差分

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「[[延喜天暦の治]]」と賞せられる醍醐天皇([[延喜の治]])・[[村上天皇]]([[天暦の治]])の「善政」とされるものの多くは寛平の治の政策の延長上に過ぎず、従来延喜年間のこととされている[[奴婢]]制度廃止令も寛平年中に出された形跡があるとする説がある。
 
寛平の治は、王臣家が諸国富豪と直接結びつくことを規制することで権門(有力貴族・寺社)を抑制し、小農民を保護するという[[律令制]]への回帰を強く志向したものであり、併せて[[蔵人所]]の充実や[[検非違使庁]]の権限拡充等天皇直属機関の強化を行うものであったが、後の延喜の治とともに現実の社会制度の変革に適合せず必ずしも成功したとは言えなかった。しかし近年、道真主導による[[王朝国家]]体制への転換準備期であったが、時平により道真の政治の記録が抹殺されたため詳細が不明となっていたにすぎないとする意見が出されている。
 
[[Category:平安時代|かんひようのち]]