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{{政治家
| 人名 = ジョーゼフ・モントーヤ
| 各国語表記 = {{en|Joseph Manuel Montoya}}
| 画像 = File:Joseph M Montoya.jpg
| 画像説明 =
| 国略称 = {{USA}}
| 生年月日 = [[1915{{生]][[924]]と年齢|1915|9|24|no}}
| 出生地 = {{USA1912}} [[ニューメキシコ州]][[ペニャブラ{{仮リカ (ニューメキシコ州)|ペニャブランカ]]|en|Pena Blanca, New Mexico}}
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1915|9|24|1978|6|8}}
| 死没地 = {{USA}} [[ワシントンD.C]]
| 出身校 = [[レジス大学]]<br>[[ジョージタウン大学]]
| 前職 =
| 現職 =
| 所属政党 = [[民主党 (アメリカ)|民主党]]
| 配偶者 = デラ・ロメロ
| 国旗 = アメリカ合衆国
| 子女 = 3人
| 職名 = [[アメリカ合衆国上院議員]]
 
| 選挙区 = [[ニューメキシコ州選出のアメリカ合衆国上院議員|ニューメキシコ州]]
| 職名4国旗 =
| 職名 = {{USA}}<br>[[File:Seal of the United States Senate.svg|20px]] [[アメリカ合衆国上院議員|上院議員]]
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| 退任日 = [[1977年]][[1月3日]]
| 退任理由国旗2 =
| 職名2 = {{USA1912}}<br/>[[File:Seal of the United States House of Representatives.svg|20px]] [[アメリカ合衆国下院議員|下院議員]]
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| 退任日3 = [[19511957]][[4月9日]]
| 退任理由元首職3 = 州知事
| 元首3 = トーマス・マブリー<br>ジョン・シムズ<br>[[エドウィン・L・メカム|エドウィン・メケム]]
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| 職名4 = [[アメリカ合衆国{{Flag|New Mexico}}<br/>上院議員]]
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| 退任理由元首職4 = 州知事
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|国旗5 =
| 職名25 = [[アメリカ合衆国{{Flag|New Mexico}}<br/>下院議員]]
|内閣5 =
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|元首5 = クライド・ティングリー<br>ジョン・マイルズ
}}
'''ジョーゼフ・マヌエル・モントーヤ'''({{lang-en|'''Joseph Manuel Montoya''', }}、[[1915年]][[9月24日]] – [[1978年]][[6月8日]])は、[[ニューキシコ州リカ合衆国]]出身[[政治家]]。1964年11月から1977年1月まで[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[ニューメキシコ]]選出の[[アメリカ合衆国上院|連邦上院]]議員]]を務めた。
 
'''ジョーゼフ・マヌエル・モントーヤ'''('''Joseph Manuel Montoya''', [[1915年]][[9月24日]] – [[1978年]][[6月8日]])は、[[ニューメキシコ州]]出身の政治家。1964年から1977年まで、[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の同州選出の[[アメリカ合衆国上院|上院]]議員を務めた。
 
== 生い立ち ==
モントーヤは1915年9月24日に[[ニューメキシコ州]]{{仮リンク|ペニャブランカ|en|Pena Blanca, New Mexico}}に誕まれた。両親のトーマスとフランシス・モントーヤは、18世紀にニューメキシコに移住したスペイン人カトリック教徒の末裔であった。[[サンドヴァル郡 (ニューメキシコ州)|サンドヴァル郡]]の公立学校で初期の教育を受け、1931年にベルナリオ高等学校を卒業した。[[コロラド州]][[デンヴァー]]のレジス・カレッジで教育を受け続け、1934年に[[ワシントンD.C.]]の[[ジョージタウン大学]]で法律の勉強を始めた。
 
== ニューメキシコ州下院・上院議員・副知事 ==
1936年、モントーヤまだ当時21歳でジョージタウン大学の在学中ニューメキシコ州議会下院において、州の歴史で最も若い議員となった。 1938年、モントーヤは法律学部を卒業後議会下院議員に選出された。その翌年民主党の多数党院内総務に選出された。
 
モントーヤは1940年11月のニューメキシコ州上院選挙でさらに政治的な上昇を続け、最も若い州上院議員に選出された。194619471月までに、モントーヤは2度州議会上院議員に再選され、多数党院内幹事と司法委員会議長の地位を保持した。1947年1月から1957年4月まで[[ニューメキシコ州副知事|同州の副知事]]に3度選出され、州議会上院でさらに2期の任期を務めた。
 
== 合衆国連邦下院・上院議員 ==
1957年、モントーヤ4月に直前に再選出されたニューメキシコ州の[[アメリカ合衆国下院|合衆国下院]]議員である{{仮リンク|アントニオ・フェルナンデス|en|Antonio M. Fernández}}の急死後の特別選挙で、合衆国連邦下院議員に選出された。議会でモントーヤは仲間の議員の尊敬を集め、政治に穏健で熱心な民主党員であり、勤勉な議員という評判を得た。1963年、モントーヤは下院予算委員会のメンバーとなった。彼は教育政策の強い擁護者で、すぐに職業的教育法を作成した。1964年、彼は自然保護区域を保護するウィルダネス法を後援した。
 
モントーヤは、1964年11月の[[アメリカ合衆国上院|上院]]選挙<ref>在職中に死亡した{{仮リンク|デニス・チャヴェス|en|Dennis Chavez<!-- リダイレクト先の「[[:en:Dennis Chávez]]」は、[[:ja:デニス・チャベス]] とリンク -->}}の補欠を充たす1964年の選挙である。</ref>に[[エドウィン・L・合衆国上院|上院エドウィン・メケム]]選挙に、[[ニューメキシコ州知事の一覧|ニューメキシコ州知事]][[エドウィン・L・メカム]]がその議席を一時的に埋めるべくすで、既知事職を辞職していたという事実にもかかわらず勝利した。こうして彼の上院での11年の経歴は始まり、そこで歳出委員会公共事業委員会原子力エネルギー合同委員会そして最も印象的な[[上院ウォーターゲート特別委員会]]として一般には知られる大統領選挙活動上院特別委員会で務めた。
 
== 成功 ==
モントーヤの最も重要な成果は上院農業委員会での業績で、そこで彼は食肉加工産業の検査と規制に関わる専門的知識を増やした。これは消費者に安全と健康の利益を与えた。彼、モントーヤ1967年の健全食肉法1968年の健全鶏肉法1974年のクリーン・ホットドッグ法を含む食肉加工産業の不衛生な状況を排除するのを助ける多くの立法を作成した。
 
== 信念と他の仕事 ==
モントーヤはまた、公民権教育ヘルスケア外国人労働者の問題にも取り組み、彼の選挙民の経済上の幸福に大きな利益を維持した。ヘルスケアの分野ではメディケアメディケイドを支援し、ヘルスケアの専門的職業にバイリンガルの訓練を供給する法案を提案した。モントーヤはまた環境保護や高齢者をるプログラムも支援した。原子力エネルギー合同委員会と上院歳出委員会でのモントーヤの立場は、ニューメキシコにある連邦の施設の維持に強い影響を彼にもたらした。
 
1976年11月にモントーヤは16パーセント以上の得票差で[[ハリソン・シュミット]]に敗北した。敗大部分はシュミットが元宇宙飛行士かつカリスマ的な演説者で、ある意味モントーヤはそうではかったということによるものであった。
 
モントーヤは翌年から2年を、上院議員{{仮リンク|ピート・ドメニッチ|en|Pete Domenici}}上院議員の支援を主に過ごし、ニューメキシコの連邦施設を稼働し続けることにを入れた。し、ある点でドメニッチはそれまでにはないほどの大きな成果を挙げた。モントーヤは1978年6月8日に[[ワシントンD.C.]]にて62歳で亡くなっ死去した。
1976年、モントーヤは16パーセント以上の得票差で[[ハリソン・シュミット]]に敗れた。敗北は、大部分はシュミットが元宇宙飛行士でカリスマ的な演説者で、ある意味モントーヤはそうではなかったということによるものであった。
 
==脚注==
モントーヤは翌年から2年を、上院議員{{仮リンク|ピート・ドメニッチ|en|Pete Domenici}}の支援を主に過ごし、ニューメキシコの連邦の施設を稼働し続けることに力を入れた。ある点でドメニッチは、それまでにはないほどの大きな成果を挙げた。モントーヤはワシントンD.C.で62歳で亡くなった。
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==外部リンク==
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