「エルピディオ・キリノ」の版間の差分
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{{大統領
| 人名 = エルピディオ・キリノ
| 各国語表記 = {{
| 画像 =
| 画像説明 =
| 出身校 = フィリピン大学
| 出生日 = {{生年月日と年齢|1890|11|16|no}}
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| 就任日 = <span style="white-space:nowrap">[[1948年]][[4月18日]]
| 退任日 = [[1953年]][[12月30日]]</span>
| 元首職 = 副大統領
| <!-- ↓省略可↓ -->
| 国名2 = {{Flagicon|PHI}} [[フィリピン|フィリピン共和国]]
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[[1890年]][[11月16日]]に[[ルソン島]]北西部にある[[イロコス・スル州]][[ビガン]]に誕生する。少年時代を[[ラ・ウニョン州]]アリンガイで過ごし、キリノはビガンの高校を卒業すると[[マニラ]]に上京し、土地局やマニラ警察で働いた。[[1911年]]にマニラ高校を卒業し、公務員試験に合格した。
[[フィリピン大学]]に進学したキリノは[[1915年]]に法学部を卒業し、後に法曹界入りした。その後[[1919年]]に代議院議員に選出されるまで弁護士として従事した。[[1925年]]
[[1934年]]3月に[[フィリピン独立法]](タイディングス・マクダフィー法)が[[アメリカ合衆国議会|アメリカ議会]]で可決されることを目指し
== 大統領 ==
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キリノ政権の6年間には目覚ましい戦後復興・経済的利益・アメリカからの経済支援の増加といった成果を挙げることができる。しかし一方で、特に農村部では富裕地主による農地の寡占という基本的な社会問題が未解決のまま残され、さらに内閣の多くが汚職や収賄によって腐敗してしまった。
[[1950年]]6月に始まった[[朝鮮戦争]]に参戦し、
== 晩年 ==
1953年7月に未だ[[反日]]感情の根強い中で、日本人の[[戦争犯罪]]者105人に恩赦令を出して日本への帰国を許可した。この経緯について[[帝京大学]]の[[高山正之]]教授は以下のように説明している。キリノは大統領就任時に[[モンテンルパ]]の収容所の日本人のB・C級戦犯3人を絞首刑にした。そしてその後、日本との戦時賠償交渉で法外な80億ドル(当時の日本の他国への賠償の相場では5億ドル)を要求し、それが拒絶されると見せしめに一晩で14人を処刑し、さらに日本政府に残りの戦犯のさらなる処刑を匂わせて要求を飲まそうとした。これをアメリカの[[ジョン・フォスター・ダレス]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]](当時)に咎められ、戦犯の処置に困り、やむなく残りの戦犯全員に恩赦を与えて解放したのが、後で美談に仕立て上げられたとしている<ref>[[高山正之]]2010「変見自在」『[[週刊新潮]]』55(5):140f.</ref>。
==家族==
1921年1月にアリシア・シキアと結婚し、5人の子女が誕生した。[[第二次世界大戦]]中の[[マニラの戦い (1945年)|マニラの戦い]]において、妻のアリシアと5人の子供のうち次男・長女・三女の3人が日本兵に殺害されたと言われる<ref>[[永井均 (歴史学者)|永井均]]『フィリピンと対日戦犯裁判』(岩波書店)1~3頁。</ref><ref>高山正之は、[[中田整一]]がキリノの作り話か中田自身の創作を元にしてNHKの番組として制作したものという見方を示しているが([[高山正之]]『サンデルよ、「正義」を教えよう』146
== 注釈 ==
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== 関連項目 ==
* [[あゝモンテンルパの夜は更けて]]
* [[:w:Philippines%27s_1st_senatorial_district|フィリピンの最初の上院地区]]
==外部リンク==
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