「ピーター・シス」の版間の差分

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10代の頃は[[アレン・ギンズバーグ]]のビート詩やロックンロール(特に[[ビートルズ]]、[[ビーチボーイズ]]、[[ローリング・ストーンズ]])などの西洋文化に興味を持つ。
 
[[1968年]]、[[プラハ美術工芸学校]]に進学。アニメーション作家である[[イジー・トルンカ]]の生徒に選ばれるが、友人と交換して[[アドルフ・ホフマイステル]]、次いで[[ミロスラフ・ヤーグル]]のクラスに入る。
在学中には、ラジオ番組への出演やロック誌への寄稿をおこなう。[[1969年]]にビーチ・ボーイズがプラハ公演を行った際には、会場のМCを務める。
 
[[1974年]]、卒業制作としてアニメーション作品「擬態」を制作。卒業後、2年の兵役に就く。
 
[[1977年]]、プロとして最初のアニメーション作品「6000個の目覚まし時計の島」を発表。同年ロンドンの[[ロイヤル・カレッジ・オブ・アート]]に留学。[[クェンティン・ブレイク]]に師事する。
 
[[1980年]]、短編アニメーション「頭」が[[ベルリン国際映画祭]]アニメーション部門で[[金熊賞]]を受賞。
 
[[1982年]]、チェコ・アニメの代表としてロサンゼルス・オリンピックのアニメーションを制作するため渡米。
 
[[1983年]]、[[ソ連]]および東欧諸国のオリンピックボイコットにより、帰国を迫られるがそれを拒否し、アメリカへ単身亡命。
 
[[1984年]]、父ヴラジミールの友人でもある映画監督[[ミロシュ・フォルマン]]より[[アマデウス (映画)|アマデウス]]のポスターを依頼される。
 
[[1989年]]5月、アメリカ市民権を取得。同年11月[[ベルリンの壁]]崩壊後、プラハの家族と再会する。
 
[[1990年]]、映画プロデューサーのテリー・ライタと結婚。後に一男一女をもうける。
 
[[1996年]]、「ピーター・シス:時の夢想人」展が[[モントルイユ]]にて開催。
 
[[1997年]]、「ピーター・シスの魔法の世界」展がプラハ城にて開催。
 
[[2004年]]、「マドレンカ」シリーズがTVアニメとして放送される。
 
[[2012年]]、長年の功績により、国際アンデルセン賞画家章を受章
 
[[2019年]]6月、「ピーターシス オデッセイアの絵本」展がエリック・カール絵本美術館で開催。同年9月、プラハのDOXギャラリーでペトル・シースの作品「フライングと他の夢について」が開催。
 
== 日本語訳された作品 ==