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|native_name = {{en|Hillary Clinton}}
|image = Hillary Clinton by Gage Skidmore 2.jpg
|caption = 2016年1月24日
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|office1 = {{USA}}<br/>[[File:Seal of the United States Department of State.svg|25px20px]] 第67代[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]
|president1 = [[バラク・オバマ]]
|deputy1 = [[ジョン・ネグロポンテ]]<br>[[ジェイムズ・スタインバーグ]]<br>[[ウィリアム・ジョセフ・バーンズ]]
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|website = {{official website|https://www.hillaryclinton.com}}
}}
'''ヒラリー・ダイアン・ロダム・クリントン'''<ref>{{cite web|title=Hillary Clinton Bio |website=CNN.com |url=http://edition.cnn.com/ALLPOLITICS/1996/candidates/democrat/clinton/hillary.shtml|access-date=2021年1月1日|quote=Name: Hillary Diane Rodham Clinton}}<br />{{cite news|last1=Secter|first1=Bob|last2=Trice|first2=Dawn Turner|title=Clinton: Most famous. Least known?|date=2021年1月1日|newspaper=Chicago Tribune|url=https://www.chicagotribune.com/lifestyles/chi-1127hillaryclintonnov27-story.html|access-date=July 19, 2019|quote=What You May Not Know About&nbsp;... Hillary Diane Rodham Clinton}}</ref>({{lang-en|Hillary Diane Rodham Clinton}}旧姓ロダム({{lang-|en|Rodham}})、[[1947年]][[10月26日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]の[[政治家]][[弁護士]]。2016年アメリカ合衆国大統領選挙での民主党の大統領候補であった
 
==概要==
1975年10月に結婚した第42代[[アメリカ合衆国大統領|大統領]][[ビル・クリントン]]の妻であり、[[1993年]][[1月20日]]から[[2001年]][[1月20日]]まで[[アメリカ合衆国のファーストレディ]]だった。[[2001年]][[1月3日]]から[[2009年]][[1月21日]]まで[[ニューヨーク州]]選出の[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[アメリカ合衆国上院議員|上院議員]]を務め、[[2008年]]の[[2008年アメリカ合衆国大統領選挙|2008年11月の大統領選挙]]で[[2008年アメリカ合衆国大統領民主党予備選挙|民主党予備選挙]]に出馬するも[[バラク・オバマ]]に敗北した<ref name="reuters20161107">{{Cite news|title=焦点:米国初の女性大統領か、ヒラリー・クリントン氏の横顔 |url=https://jp.reuters.com/article/usa-election-clinton-profile-idJPKBN1321CX|work=ロイター|date=2016年11月7日|accessdate=2021-1-1|language=ja}}</ref>。[[2009年]][[1月21日]]から[[2013年]][[2月1日]]までオバマ政権にて第67代[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]を務めた。[[2016年]]の[[2016年アメリカ合衆国大統領選挙|2016年11月の大統領選挙]]では[[2016年アメリカ合衆国大統領民主党予備選挙|民主党予備選挙]]に勝利して候補指名を受け、アメリカ史上初めて主要政党の大統領候補となった女性になったが<ref name="reuters20161107"/>、本選では[[共和党 (アメリカ)|共和党]]候補[[ドナルド・トランプ]]に得票数で上回るも獲得[[アメリカ選挙人団|獲得選挙人]]で敗北し、女性初の大統領となるのを逃した。身長168センチメートル<ref>[https://www.businessinsider.com/us-president-first-lady-height-differences-2018-7 The height differences between all the US presidents and first ladies] [[ビジネス・インサイダー]]</ref>。
 
== 経歴 ==
=== 生い立ちと教育 ===
[[File:HRCEarlyYearsExhibitClintonPresidentialCenter.jpg|thumb|left|[[アーカンソー州]][[リトルロック (アーカンソー州)|リトルロック]]にある{{仮リンク|クリントン大統領センター|en|Clinton Presidential Center}}のヒラリーの幼少期・若年期に関する展示物]]
[[1947年]][[10月26日]]に[[イリノイ州]][[シカゴ]]に衣料品店を営む両親のもとにまれた。一家は[[メソジスト]][[教派]]であり、彼女ヒラリーは[[コーカソイド|白人]][[中産階級]]が多く住むイリノイ州パークリッジで成長する。父親の{{仮リンク|ヒュー・ロダム (1911年生)|en|Hugh Rodham (born 1911)|label=ヒュー・ロダム}}は[[保守|保守主義者]]であり(ヒラリーによれば「融通の利かない自助努力タイプの保守的な共和党員」だったといい、自分の「大きく轟くようなバカ笑い」は父親から受け継いだと語っている<ref name="reuters20161107"/>)、繊維業界の大物であった。母親の{{仮リンク|ドロシー・ハウウェル・ロダム|en|Dorothy Howell Rodham|label=ドロシー}}は専業主婦であり、ドロシーの両親はドロシーが幼い頃に[[離婚]]、ドロシーは父方の両親に預けられ寂しい子供時代を過ごした。ヒラリーには2人の弟である{{仮リンク|ヒュー・ロダム (1950年生)|en|Hugh Rodham (born 1950)|label=ヒュー}}と[[トニー・ロダム|トニー]]がいる。
 
ヒラリーは幼少時からスポーツに興味を持ち、[[テニス]]や[[スケート]]、[[バレーボール]]などを楽しんだ。また早くから政治に興味を持ち、若き[[共和党 (アメリカ)|共和党]]員として活動、[[1964年アメリカ合衆国大統領選挙]]では共和党の[[バリー・ゴールドウォーター]]候補を応援するゴールドウォーターガールを務めた。
 
[[:en:Maine South High School|メイン東高校]]を卒業後、[[1965年]]に[[マサチューセッツ州]]の名門女子大である[[ウェルズリー大学]]に入学、1年生の時学内青年共和党の党首に選ばれるが、[[ベトナム戦争]]や[[公民権運動|公民権]]に関する共和党の政策に疑問を持ち始め、その後辞任した。[[1968年アメリカ合衆国大統領選挙|1968年アメリカ合衆国大統領予備選挙]]では、[[ベトナム戦争]]介入反対を掲げる[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[ユージーン・マッカーシー]]候補を支持した。その一方で、同年の夏には首都[[ワシントンD.C.|ワシントン]]の[[アメリカ合衆国下院|下院]]共和党議員総会で[[インターンシップ|インターン]]を経験、共和党党大会では[[ニューヨーク州]][[知事]][[ネルソン・ロックフェラー]]州知事のために働いた。その後ウェルズリー校を優秀な成績で卒業、同大学初の卒業生総代として行った[[演説|スピーチ]]が賞賛から非難までさまざま様々な反響を呼び、地元の[[テレビジョン放送局|テレビ局]]の[[インタビュー]]に出演、[[ライフ (雑誌)|『ライフ』誌]]にも取り上げられた。
 
=== 弁護士時代 ===
[[1969年]]にヒラリーは[[イェール・ロー・スクール]]に進み、そこで[[ビル・クリントン]]に出会う。在学中はマリアン・エデルマンが始めた児童擁護のための組織で働き、また[[法律]]が子供に与える影響について特に学んだ。[[1972年]]アメリカ合衆国11月の大統領選挙では[[ビル・クリントン]]が参加していた民主党の[[ジョージ・マクガヴァン]]大統領候補の選挙運動に加わった。[[1973年]]のロースクール卒業後は([[法務博士]](Juris Doctor)の学位を受ける。)後は、エデルマンが新たに始めた児童防衛基金 (Children's Defense Fund) で働いた後、[[1974年]]には[[アメリカ合衆国下院司法委員会|下院司法委員会]]による[[リチャード・ニクソン|ニクソン大統領]]の[[弾劾]]調査団に参加している。
 
調査団解散後はビルのいる[[アーカンソー州]]に移り、ビルとともに[[アーカンソー大学]]ファイエットビル校ロースクールで教鞭を取った。この年ビルがアーカンソー州で下院議員選に出馬するが落選[[1975年]]10月ビルと結婚している。[[1976年]]にはビルがアーカンソー州の司法長官に選出されて州都[[リトルロック (アーカンソー州)|リトルロック]]へ移るのに伴い、アーカンソー大学での職を辞し、[[ビンス・フォスター]]がパートナー(共同経営者)を務めるローズ法律事務所に移った。また同じ年の大統領選では、ビルとともに民主党候補の[[ジミー・カーター]]の選挙戦に参加した。[[1978年]]ビルが32歳の若さでアーカンソー州知事に当選するとアーカンソー州の[[ファーストレディ]]となったが、弁護士としての活動も続け、[[1979年]]にはローズ法律事務所の女性初のパートナーとなった。その一方で、アーカンソー州における質の高いヘルスケアの普及を目的とした地方健康諮問委員会 (Rural Health Advisory Committee) の議長を務めるとともに、児童防衛基金の活動にも参加した。また[[ジミー・カーター|カーター大統領]]の指名により、[[アメリカ合衆国議会|連邦議会]]が設立した[[非営利団体]]の司法事業推進公社 (({{en|Legal Service Corporation) }})の理事を務めた。
[[File:President Ronald Reagan and Nancy Reagan with Bill Clinton and Hillary Clinton in the Blue Room.jpg|thumb|左から[[ビル・クリントン]]、[[ナンシー・レーガン]]、ヒラリー・クリントン、[[ロナルド・レーガン]]([[1987年]][[2月22日]][[ホワイトハウス]]・{{仮リンク|ブルールーム (ホワイトハウス)|label=ブルールーム|en|Blue Room (White House)}})]]
[[1980年]]2月にヒラリーは娘の[[チェルシー・クリントン|チェルシー]]を出産した。ビルは再選をかけた同年の州知事選挙に破れ敗北するが(当時のアーカンソー州知事の任期は2年)、次の[[1982年]]の知事選で当選してカムバックした。この1982年の選挙戦を機に、ヒラリーは結婚後も引き続き使っていた「ヒラリー・ローダム」を「ヒラリー・ローダム・クリントン」に替えている(''「[[ヒラリー・クリントン#名前のこだわり|名前のこだわり]]」の節を参照'')。
 
この2期目のクリントン知事のもとで、ヒラリーはアーカンソー州の教育制度改革を目的とした教育水準委員会 (({{en|Education Standards Committee) }})の委員長を務めた。
 
[[ファイル:Hillary Clinton 1992.jpg|thumb|160px|ビルの大統領選挙運動中、新しいイメージで登場したヒラリー。ソフトな[[おかっぱ|ボブカット]]が話題になった。]]
[[1991年]]にビルは大統領選挙に出馬した。その選挙運動中、ビルは妻ヒラリーのことを「ひとつ分のお値段で、ふたつ分のお買い得 ({{en|"get two for the price of one"}})」と紹介し、この時に多くのアメリカ国民はヒラリーの存在を知った<ref name="reuters20161107"/>。ヒラリーも自分は「家に残ってクッキーを焼いているような」女性ではないと述べた<ref name="reuters20161107"/>。しかしこうしたヒラリーのキャリアウーマンアピールについて保守派からは「[[専業主婦]]に対して冷淡」「急進的[[フェミニスト]]」「伝統的家族観を破壊する」といった批判を浴びることになった<ref name="reuters20161107"/>。こうした批判は選挙運動中収まることは無く、ヒラリーはその対応に苦慮した。この頃法律事務所や「[[ウォルマート]]」の[[社外取締役]]児童防衛基金の会長などの職を次々に辞している。
 
同年秋、ビルと[[ナイトクラブ|クラブ]][[歌手]][[ジェニファー・フラワーズ]]の[[不倫]]問題が公になり、この両者の間で交わされた電話の会話の一部を録音したテープがマスコミに流出すると、それまで選挙戦を優勢に戦っていたビルの支持率が急落した。これに対してヒラリーは夫と共にテレビ出演し、アメリカのカントリー歌手[[タミー・ワイネット]]の曲「スタンド・バイ・ユア・マン」に言及し「私はここにただ座っているだけではない。タミー・ワイネットが歌っているように、1人の女性として、私の彼を支えて立っている」と述べ、夫を愛し尊敬していると述べた。そして「もしそれでも皆さんが十分でないと思うなら、彼に投票しなければいいだけの話だ」と語って夫を擁護した<ref name="reuters20161107"/>。
 
=== ファーストレディ ===
[[File:Photograph of First Lady Hillary Rodham Clinton Taping a Larry King Weekend Show - NARA - 3668097.jpg|thumb|1993年3月4日[[ラリー・キング]]の番組に出演するヒラリー]]
ビルが大統領に当選すると、ヒラリーは[[1993年]]1月から82001間、1月まで[[アメリカ合衆国のファーストレディ]]となった。ヒラリーはアメリカでは初の大学院卒業者にして弁護士の[[ファーストレディー]]であり、したがって初の[[キャリアウーマン]]のファーストレディーである。そのため当時アメリカではヒラリーのことを、かつて[[国際連合|国代表]]を務めた[[エレノア・ルーズベルト]]と並ぶ「最強のファーストレディー」と評していた。
[[File:Hillary Clinton Health care elderly.jpg|thumb|left|1993年医療制度改革運動の際に高齢者と話すヒラリー]]
ビルは政権発足直後の1993年1月25日、[[ユニバーサルヘルスケア|国民皆保険]]を目指す目玉のアジェンダだった医療制度改革についてホワイトハウス内に設置した{{仮リンク|国民医療制度改革に関するタスク・フォース|label=タスク・フォース|en|Task Force on National Health Care Reform}}の座長にヒラリーを指名した{{sfn|松本俊太|2017|p=145}}。しかしこの人事はビル・クリントンの身内や地元仲間に甘い人事の典型として批判にさらされた{{sfn|松本俊太|2017|p=141}}。
 
この改革でヒラリーが取った手法は医療関係の圧力団体(医師会や製薬企業など)の既得権益と一般国民の利益を対置させ、広く庶民に訴えかけて医療特権構造に切り込むという民主的かつ対決的なものだった{{sfn|斎藤眞|古矢旬|2012|p=292}}。まるで選挙運動のようなレベルで全米五十50州で3000万ドルの規模の広報活動を行い、医療制度改革への支持を訴えた。こういった活動で確かに短期的には成功し、クリントン政権の支持率は10%程度上がった{{sfn|松本俊太|2017|p=148}}。
 
しかしこの手法はGDPの7分の1を占める莫大な医療費に巣う強固な既得権益に切り込むにはあまりにもナイーブだった{{sfn|斎藤眞|古矢旬|2012|p=292}}。共和党保守派や医療業界が反医療制度改革キャンペーンを開始した。特に大きな打撃となったのが、中小保険会社の団体であるアメリカ民間医療保険協会が作ったテレビCM(「ハリーとルイーズ」という架空の中間層夫婦が政府案を批判するという内容)を1年間流し続けたことである{{sfn|松本俊太|2017|p=148}}。
 
さらにヒラリーは議会に対して大まかな原則とガイドラインだけを示して議会の立法機能に委ねる方式ではなく、ホワイトハウス主導で細かく法案を作り上げて、これを議会に丸呑みさせようとしたため、いたずらに議会の反発を買った{{sfn|斎藤眞|古矢旬|2012|p=292}}。11月20日に議会に法案として提出されたが、[[ボブ・ドール]]ら共和党議員の激しい反発を買い、1994年9月に廃案となり失敗に終わった{{sfn|松本俊太|2017|p=148-152}}。
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こうした立場のヒラリーは彼女に批判的な人々から「共同大統領 ({{en|co-President}})」や「ビラリー ({{en|Billary}})」と呼ばれた。こうしたあだ名は、彼女のややもすると他者を小ばかにしたかのような話し振りが、鼻持ちならない性格として批判者たちの憎悪を増幅しているためでもある。またヒラリーは、イーストウィングにあるファーストレディーとしてのオフィスとは別に、大統領執務室や閣議室のある[[ウエストウイング]]にも異例のオフィスを構えたが、そうした彼女のスタッフたちを、ヒラリー自身も含めて周囲は「ヒラリーランド ({{en|Hillaryland}})」と呼んだ。
 
[[1995年]]9月には[[北京市|北京]]で開催された[[国際連合|国連]][[世界女性会議]]にアメリカ代表団の名誉団長として出席し演説の中で「人間の権利は女性の権利であり、女性の権利は人間の権利である」と訴えた<ref name="reuters20161107"/>。[[1996年]]1月には初の著書となる『村中みんなで ({{en|It Takes A Village}})』を出版した。
 
同じ頃から、クリントン大統領夫妻は過去のビジネス上の取引についてホワイトウォーターと呼ばれる不動産開発会社が捜査対象になり、{{仮リンク|ホワイトウォーター疑惑|en|Whitewater controversy}}が発生した。この件は独立検察官による捜査に発展し、後にその捜査はホワイトハウスの研修生[[モニカ・ルインスキー]]とビル・クリントンの性的関係にまで及んだ。またアーカンソー時代からのクリントン夫妻の親友でホワイトウォーター疑惑にも登場する[[ビンス・フォスター]]大統領次席法律顧問が1993年に自殺した件について、2003年の回想録でヒラリーは「[[陰謀論]]者と捜査官たちは、ビンスが『ホワイトウォーター疑惑について彼が知っていること』を隠蔽するために殺されたのだと証明しようとしていた」と批判している。2000年に独立検察官の捜査は、クリントン夫妻がホワイトウォーター社に関して何らかの犯罪的行為に関与したことを示す十分な証拠はないと結論づけた<ref name="reuters20161107"/>。
 
またこれに先立って、1998年12月にはクリントン大統領がモニカ・ルインスキーの関係を隠蔽するため虚偽の宣誓供述を行い、司法を妨害する「重罪及び不品行」があったとして、共和党優位の連邦議会下院が米国アメリカ史上2度目となる大統領弾劾訴追を決議した。同じく共和党優位の上院で弾劾裁判が行われたが、1999年2月にクリントン大統領の無罪を決定した。ヒラリーはこの弾劾訴追について「[[ソ連]]式の見せしめ裁判」を伴う共和党の権力乱用であり、「議会によるクーデタの企て」と批判した<ref name="reuters20161107"/>。
 
他方でヒラリーは、ルインスキー事件について「ビルの首を絞めてやりたいと思った」と述べ、プライベートでは彼を叱責した。しかし結局、2人でカウンセリングを受けた後、彼女は今も夫を愛しており夫婦関係を維持することに決めたという2003年の著書『リビング・ヒストリー』のなかでは「私に分かっているのは、ビルほど私を理解し、私を笑わせてくれる人はいないということだけ」と書いている<ref name="reuters20161107"/>。
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=== 上院議員 ===
[[ファイル:ClintonSenate.jpg|160px|thumb|left|2001年1月4日、上院議員として初登院し宣誓式に臨むヒラリー。左は夫のクリントン大統領と娘のチェルシー、右は[[アル・ゴア]][[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]] (上院議長)。]]
2000年に長年[[ニューヨーク州]]選出上院議員を務めた民主党のダニエル・パトリック・モイナハンが引退を表明すると、[[ニューヨーク|ニューヨーク市]]市長で共和党の[[ルドルフ・ジュリアーニ]]が出馬を表明した。ジュリアーニ市長の高い支持率を危惧した民主党は、冷めることないクリントン人気に期待をかけ、ヒラリーに白羽の矢を立てた。選挙区の住民でもなく、しかもファーストレディーの国政選挙出馬は前代未聞で、現職市長相手の選挙は接戦が予想されたが、ジュリアーニが[[前立腺癌]]治療のため出馬を取り止めると、共和党の後継候補ラヅィオ下院議員では勝負にならず、ヒラリーは得票率で55パーセントを得て当選した(なおこの出馬も[[1964年]]に[[マサチューセッツ州]]出身の[[ロバート・ケネディ]][[アメリカ合衆国司法長官|司法長官]]が民主党に乞われて上院選にニューヨーク州から出馬し当選した例を踏襲したものだと言われる)。
 
[[ファイル:Hillary Rodham Clinton.jpg|160px|thumb|上院議員時代のヒラリー]]
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ヒラリーは上院時代も含めて必ずしも外交に力を入れてきたとは言い難く、外交通とは言い難かったが、大統領選挙においては、ファーストレディとして世界中の要人との人脈を築き上げたことを強くアピールしてきた。オバマが彼女を国務長官に指名した背景には、圧倒的な知名度など彼女の「即戦力になる経験」を重視し、「[[プラグマティズム|実利的]]」な政権であることを示す一方で、大統領選挙で党内に入った亀裂を融和し「超党派」性をアピールしたかったという事情がある。
 
2009年1月13日に上院外交委員会はヒラリーを召還して国務長官承認のための公聴会を開始し、オバマ大統領就任後の[[1月21日]]に上院の本会議が賛成94反対2でヒラリーの国務長官就任を承認した。これに伴いヒラリーは正式に67代目アメリカ合衆国国務長官に就任した<ref>{{Cite news |url=http://www.cnn.co.jp/usa/CNN200901220002.html |title=クリントン氏が新国務長官に就任 上院の承認受け |newspaper=CNN.co.jp |publisher=[[CNN]] |date=2009-01-22 |accessdate=2009-01-22 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090122155843/http://cnn.co.jp/usa/CNN200901220002.html |archivedate=2009年1月22日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。
 
国務長官としてのヒラリーの最初の外遊先は[[東アジア]]諸国であり、日本・[[インドネシア]]・韓国・中華人民共和国を順に訪問して無難な外交デビューを飾った<ref group="注釈">インドネシアではオバマ大統領の母校に訪問。またテレビ番組にも出演した。それにはイスラム社会との冷え切った関係修復があると言われている。</ref>。他方で中東和平・[[対テロ]]など喫緊の課題を多く抱える中近東・西南アジアで、大統領と直接協議する権限を与えられた特使が実務に当たっており、外交経験の少ないヒラリーは大きな懸案の少ない無難な地域で仕事を始めざるを得なかったという事情があった。
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同年に一部では2年後の大統領選挙に向けて、副大統領候補としてバイデン副大統領と副大統領職と国務長官職を交代するのではないかという憶測が飛び交ったが、オバマ政権は「全く真実ではない」と否定する声明を出しており、ヒラリー本人もこの時点ではこれを否定していた<ref>{{Cite news |url=http://www.afpbb.com/article/politics/2764310/6137626 |title=クリントン副大統領説、ホワイトハウスが否定 |newspaper=AFPBB News |agency=AFP通信 |publisher=クリエイティヴ・リンク |date=2010-10-07}}</ref>。
 
[[2011年]]3月18日、アメリカ合衆国には国務長官を1期限りで引退する旨を明らかにし、同時に次期大統領選挙出馬も否定した<ref>{{Cite news|author=村山祐介|url=http://www.asahi.com/international/update/0318/TKY201103170575.html|title=クリントン国務長官「1期で引退」 大統領選出馬も否定|newspaper=asahi.com|publisher=朝日新聞社|date=2011-03-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110320204558/http://www.asahi.com/international/update/0318/TKY201103170575.html|archivedate=2011年3月20日|deadurldate=2017年9月}}</ref>。
 
[[福島原発事故]]を受けて、東南アジア訪問の途中に日本へ立ち寄ることとなった。日本での滞在予定時間は5時間だったが、ヒラリーは元大統領夫人として天皇への面会を求めた<ref name="rfi">[http://www.rfi.fr/asie-pacifique/20110417-etats-unis-participeront-reconstruction-japon/ Les Etats-Unis participeront à la reconstruction du Japon] 2011年4月17日 RFI EN 15 LANGUES。</ref><ref name="wsj">[https://blogs.wsj.com/japanrealtime/2011/04/18/u-s-secretary-clintons-social-diplomacy/ U.S. Secretary Clinton’s Social Diplomacy] 2011年4月18日 THE WALL STREET JOURNAL。</ref>。[[菅直人内閣]]はこれを受け入れ、ヒラリーは2011年4月17日に天皇・皇后と面会した。民主党政権下では、[[鳩山由紀夫内閣]]の時の中国の[[習近平]]政治局常務委員(当時)訪日の際に次いで、皇室への[[国事行為]]の依頼は1か月以上前に行うという慣行(1か月ルール)を破る2度目の事案となった<ref>(参考)[http://maiko.cocolog-nifty.com/kuma/2011/05/post-4825.html May 05, 2011 in 経済・政治・国際] もりのくま。</ref>。なお、ヒラリーは2009年2月に訪日した際にも、アメリカ合衆国国務長官として皇后と面会している<ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/4030909/ “報道の女王”安藤優子アナが大絶賛する巨乳アナとは!?] 2009年2月23日(リアルライブ) ライブドアNEWS。</ref>。
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2013年1月25日、オバマ大統領と初めて2人だけで[[CBS]]テレビに出演し、大統領からは「彼女は最高の国務長官の1人として政権を去る。公の場で感謝を伝えたかった」と称賛された<ref>{{cite news |url=http://www.jiji.com/jc/zc?k=201301/2013012600190&rel=y&g=int |title=最高の国務長官」と絶賛=米大統領、クリントン氏とTV初共演 |newspaper=時事ドットコム |publisher=時事通信社 |date=2013-01-26 |accessdate=2013-02-02 |archiveurl=https://archive.is/20130426210140/http://www.jiji.com/jc/zc?k=201301/2013012600190&rel=y&g=int |archivedate=2013年4月26日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。翌日にCBSで放送された単独インタビューでは2016年の大統領選挙について訊かれ、「あす、あるいは来年のことは予測できない」と立候補に含みを持たせたともとれる発言をしている<ref>{{cite news |url=http://www.jiji.com/jc/zc?k=201301/2013012800193&rel=y&g=int |title=米大統領選出馬に含み=待望論拡大も-クリントン長官 |newspaper=時事ドットコム |publisher=時事通信社 |date=2013-01-28 |accessdate=2013-02-02 |archiveurl=https://archive.is/20130426190806/http://www.jiji.com/jc/zc?k=201301/2013012800193&rel=y&g=int |archivedate=2013年4月26日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。任期の終わり頃には国民の人気は高くなっており、退任直前の2013年1月に[[ワシントン・ポスト]]と[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABC]]が共同で行った[[世論調査]]では支持率65パーセントだった<ref>{{cite news |url=http://www.afpbb.com/article/politics/2923928/10183002 |title=クリントン国務長官、2016年大統領選出馬に含み |newspaper=AFPBB News |agency=AFP通信 |publisher=クリエイティヴ・リンク |date=2013-01-28 |accessdate=2013-02-16}}</ref>。
 
2月1日、「皆ととも米国アメリカを安全にし、国益を促進し、われわれ我々の価値が敬われるよう努めてきたことを誇りに思う」と挨拶をし、国務省を後にした。直前に[[トルコ]]の首都である[[アンカラ]]のアメリカ大使館で[[自爆テロ]]が発生したため、最後までその対応に追われての退任だった<ref>{{cite news |url=http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2013020200076 |title=最後までテロ対応=クリントン米国務長官が退任 |newspaper=時事ドットコム |publisher=時事通信社 |date=2013-02-02 |accessdate=2013-02-02 |archiveurl=https://archive.is/20130426201447/http://www.jiji.com/jc/zc?k=201302/2013020200076 |archivedate=2013年4月26日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。
 
ヒラリーは雑誌のインタビューで、2014年に入り[[イスラーム過激派|過激派組織]][[ISIL]]の勢力が増していることについて、[[シリア]]での穏健な反[[バッシャール・アル=アサド|アサド]]勢力を支援しなかったことが原因と、[[バラク・オバマ|オバマ]]大統領の政策を失敗と批判した<ref>{{cite web |title=オバマ氏とヒラリー氏すきま風 大統領選を意識し距離? |newspaper=[[朝日新聞]] |url=http://www.asahi.com/articles/ASG8J4F2HG8JUHBI00Q.html |date=2014-8-17 |accessdate=2014-8-17|author=大島隆 }}</ref>。
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{{S-bef|before={{仮リンク|トマス・J・モラン (実業家)|label=トマス・モラン|en|Thomas J. Moran (businessman)}}}}
{{S-ttl|title={{仮リンク|クイーンズ大学ベルファスト総長|en|List of chancellors of the Queen's University, Belfast}}|years = 2020年1月 現在}}
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{{s-aft|after=[[カーステン・ギリブランド]]<br/>({{仮リンク|ニューヨーク州の2010年アメリカ合衆国上院議員選挙|label=2010年11月|en|2010 United States Senate special election in New York}})}}
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{{s-ttl|title={{仮リンク|アメリカ合衆国上院民主党有権者対策委員会|label=上院有権者対策委員会|en|United States Senate Democratic Steering and Outreach Committee}}委員長|years=2005年–2007年}}