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|native_name = {{en|Hillary Clinton}}
|image = Hillary Clinton by Gage Skidmore 2.jpg
|caption = 2016年1月24日
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|office1 = {{USA}}<br/>[[File:Seal of the United States Department of State.svg|
|president1 = [[バラク・オバマ]]
|deputy1 = [[ジョン・ネグロポンテ]]<br>[[ジェイムズ・スタインバーグ]]<br>[[ウィリアム・ジョセフ・バーンズ]]
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|predecessor1 = [[コンドリーザ・ライス]]
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|term_start2 = [[2001年]][[1月3日]]
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|party = [[File:GOP logo.svg|40px]] [[共和党 (アメリカ)|共和党]]( - 1968年)<br/>[[File:US Democratic Party Logo.svg|20px]] [[民主党 (アメリカ)|民主党]](1968年 - 現在)
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|website = {{official website|https://www.hillaryclinton.com}}
}}
'''ヒラリー・ダイアン・ロダム・クリントン'''<ref>{{cite web|title=Hillary Clinton Bio |website=CNN.com |url=http://edition.cnn.com/ALLPOLITICS/1996/candidates/democrat/clinton/hillary.shtml|access-date=2021年1月1日|quote=Name: Hillary Diane Rodham Clinton}}<br />{{cite news|last1=Secter|first1=Bob|last2=Trice|first2=Dawn Turner|title=Clinton: Most famous. Least known?|date=2021年1月1日|newspaper=Chicago Tribune|url=https://www.chicagotribune.com/lifestyles/chi-1127hillaryclintonnov27-story.html|access-date=July 19, 2019|quote=What You May Not Know About ... Hillary Diane Rodham Clinton}}</ref>({{lang-en|Hillary Diane Rodham Clinton}}
==概要==
1975年10月に結婚した第42代[[アメリカ合衆国大統領|大統領]][[ビル・クリントン]]の妻であり、[[1993年]][[1月20日]]から[[2001年]][[1月20日]]まで[[アメリカ合衆国のファーストレディ]]だった。[[2001年]][[1月3日]]から[[2009年]][[1月21日]]まで[[ニューヨーク州]]選出の[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[アメリカ合衆国上院議員|上院議員]]を務め、
== 経歴 ==
=== 生い立ちと教育 ===
[[File:HRCEarlyYearsExhibitClintonPresidentialCenter.jpg|thumb|left|[[アーカンソー州]][[リトルロック (アーカンソー州)|リトルロック]]にある{{仮リンク|クリントン大統領センター|en|Clinton Presidential Center}}のヒラリーの幼少期・若年期に関する展示物]]
[[1947年]][[10月26日]]に[[イリノイ州]][[シカゴ]]に衣料品店を営む両親のもとに誕生
ヒラリーは幼少時からスポーツに興味を持ち、[[テニス]]や[[スケート]]、[[バレーボール]]などを楽しんだ。また早くから政治に興味を持ち、若き[[共和党 (アメリカ)|共和党]]員として活動し、[[1964年アメリカ合衆国大統領選挙]]では共和党の[[バリー・ゴールドウォーター]]候補を応援するゴールドウォーターガールを務めた。
[[:en:Maine South High School|メイン東高校]]を卒業後、[[1965年]]に[[マサチューセッツ州]]の名門女子大である[[ウェルズリー大学]]に入学し、1年生の時
=== 弁護士時代 ===
[[1969年]]にヒラリーは[[イェール・ロー・スクール]]に進み、そこで[[ビル・クリントン]]に出会う。在学中はマリアン・エデルマンが始めた児童擁護のための組織で働き、また[[法律]]が子供に与える影響について特に学んだ。[[1972年]]
調査団解散後はビルのいる[[アーカンソー州]]に移り、ビルとともに[[アーカンソー大学]]ファイエットビル校ロースクールで教鞭を取った。この年にビルがアーカンソー州で下院議員選に出馬するが落選し、
[[File:President Ronald Reagan and Nancy Reagan with Bill Clinton and Hillary Clinton in the Blue Room.jpg|thumb|左から[[ビル・クリントン]]、[[ナンシー・レーガン]]、ヒラリー・クリントン、[[ロナルド・レーガン]]([[1987年]][[2月22日]][[ホワイトハウス]]・{{仮リンク|ブルールーム (ホワイトハウス)|label=ブルールーム|en|Blue Room (White House)}})]]
[[1980年]]2月にヒラリーは娘の[[チェルシー・クリントン|チェルシー]]を出産した。ビルは再選をかけた同年の州知事選挙に
この2期目のクリントン州知事のもとで、ヒラリーはアーカンソー州の教育制度改革を目的とした教育水準委員会
[[ファイル:Hillary Clinton 1992.jpg|thumb|160px|ビルの大統領選挙運動中、新しいイメージで登場したヒラリー。ソフトな[[おかっぱ|ボブカット]]が話題になった。]]
[[1991年]]にビルは大統領選挙に出馬した。その選挙運動中、ビルは妻ヒラリーのことを「ひとつ分のお値段で、ふたつ分のお買い得
同年秋、ビルと[[ナイトクラブ|クラブ]][[歌手]][[ジェニファー・フラワーズ]]の[[不倫]]問題が公になり、この両者の間で交わされた電話の会話の一部を録音したテープがマスコミに流出すると、それまで選挙戦を優勢に戦っていたビルの支持率が急落した。これに対してヒラリーは夫と共にテレビ出演し、
=== ファーストレディ ===
[[File:Photograph of First Lady Hillary Rodham Clinton Taping a Larry King Weekend Show - NARA - 3668097.jpg|thumb|1993年3月4日[[ラリー・キング]]の番組に出演するヒラリー]]
ビルが大統領に当選すると、ヒラリーは
[[File:Hillary Clinton Health care elderly.jpg|thumb|left|1993年医療制度改革運動の際に高齢者と話すヒラリー]]
ビルは政権発足直後の1993年1月25日、[[ユニバーサルヘルスケア|国民皆保険]]を目指す目玉のアジェンダだった医療制度改革についてホワイトハウス内に設置した{{仮リンク|国民医療制度改革に関するタスク・フォース|label=タスク・フォース|en|Task Force on National Health Care Reform}}の座長にヒラリーを指名した{{sfn|松本俊太|2017|p=145}}。しかしこの人事はビル・クリントンの身内や地元仲間に甘い人事の典型として批判にさらされた{{sfn|松本俊太|2017|p=141}}。
この改革でヒラリーが取った手法は医療関係の圧力団体(医師会や製薬企業など)の既得権益と一般国民の利益を対置させ、広く庶民に訴えかけて医療特権構造に切り込むという民主的かつ対決的なものだった{{sfn|斎藤眞|古矢旬|2012|p=292}}。まるで選挙運動のようなレベルで全米
しかしこの手法はGDPの
さらにヒラリーは議会に対して大まかな原則とガイドラインだけを示して議会の立法機能に委ねる方式ではなく、ホワイトハウス主導で細かく法案を作り上げて、これを議会に丸呑みさせようとしたため、いたずらに議会の反発を買った{{sfn|斎藤眞|古矢旬|2012|p=292}}。11月20日に議会に法案として提出されたが、[[ボブ・ドール]]ら共和党議員の激しい反発を買い、1994年9月に廃案となり失敗に終わった{{sfn|松本俊太|2017|p=148-152}}。
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こうした立場のヒラリーは彼女に批判的な人々から「共同大統領 ({{en|co-President}})」や「ビラリー ({{en|Billary}})」と呼ばれた。こうしたあだ名は、彼女のややもすると他者を小ばかにしたかのような話し振りが、鼻持ちならない性格として批判者たちの憎悪を増幅しているためでもある。またヒラリーは、イーストウィングにあるファーストレディーとしてのオフィスとは別に、大統領執務室や閣議室のある[[ウエストウイング]]にも異例のオフィスを構えたが、そうした彼女のスタッフたちを、ヒラリー自身も含めて周囲は「ヒラリーランド ({{en|Hillaryland}})」と呼んだ。
[[1995年]]9月には[[北京市|北京]]で開催された[[国際連合|国連]][[世界女性会議]]にアメリカ代表団の名誉団長として出席し、演説の中で「人間の権利は女性の権利であり、女性の権利は人間の権利である」と訴えた<ref name="reuters20161107"/>。[[1996年]]1月には初の著書となる『村中みんなで ({{en|It Takes A Village}})』を出版した。
同じ頃から、クリントン大統領夫妻は過去のビジネス上の取引についてホワイトウォーターと呼ばれる不動産開発会社が捜査対象になり、{{仮リンク|ホワイトウォーター疑惑|en|Whitewater controversy}}が発生した。この件は独立検察官による捜査に発展し、後にその捜査はホワイトハウスの研修生[[モニカ・ルインスキー]]とビル・クリントンの性的関係にまで及んだ。またアーカンソー時代からのクリントン夫妻の親友でホワイトウォーター疑惑にも登場する[[ビンス・フォスター]]大統領次席法律顧問が1993年に自殺した件について、2003年の回想録でヒラリーは「[[陰謀論]]者と捜査官たちは、ビンスが『ホワイトウォーター疑惑について彼が知っていること』を隠蔽するために殺されたのだと証明しようとしていた」と批判している。2000年に独立検察官の捜査は、クリントン夫妻がホワイトウォーター社に関して何らかの犯罪的行為に関与したことを示す十分な証拠はないと結論づけた<ref name="reuters20161107"/>。
またこれに先立って、1998年12月にはクリントン大統領がモニカ・ルインスキーの関係を隠蔽するため虚偽の宣誓供述を行い、司法を妨害する「重罪及び不品行」があったとして、共和党優位の連邦議会下院が
他方でヒラリーは、ルインスキー事件について「ビルの首を絞めてやりたいと思った」と述べ、プライベートでは彼を叱責した。しかし結局、2人でカウンセリングを受けた後、彼女は今も夫を愛しており夫婦関係を維持することに決めたという2003年の著書『リビング・ヒストリー』のなかでは「私に分かっているのは、ビルほど私を理解し、私を笑わせてくれる人はいないということだけ」と書いている<ref name="reuters20161107"/>。
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=== 上院議員 ===
[[ファイル:ClintonSenate.jpg|160px|thumb|left|2001年1月4日、上院議員として初登院し宣誓式に臨むヒラリー。左は夫のクリントン大統領と娘のチェルシー、右は[[アル・ゴア]][[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]] (上院議長)。]]
2000年に長年[[ニューヨーク州]]選出上院議員を務めた民主党のダニエル・パトリック・モイナハンが引退を表明すると、[[ニューヨーク|ニューヨーク市]]市長で共和党の[[ルドルフ・ジュリアーニ]]が出馬を表明した。ジュリアーニ市長の高い支持率を危惧した民主党は、冷めることないクリントン人気に期待をかけ、ヒラリーに白羽の矢を立てた。選挙区の住民でもなく、しかもファーストレディーの国政選挙出馬は前代未聞で、現職市長相手の選挙は接戦が予想されたが、ジュリアーニが[[前立腺癌]]治療のため出馬を取り止めると、共和党の後継候補ラヅィオ下院議員では勝負にならず、ヒラリーは得票率で55パーセントを得て当選した(なおこの出馬も[[1964年]]に[[マサチューセッツ州]]出身の[[ロバート・ケネディ]][[アメリカ合衆国司法長官|司法長官]]が民主党に乞われて上院選挙にニューヨーク州から出馬し、当選した例を踏襲したものだと言われる)。
[[ファイル:Hillary Rodham Clinton.jpg|160px|thumb|上院議員時代のヒラリー]]
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ヒラリーは上院時代も含めて必ずしも外交に力を入れてきたとは言い難く、外交通とは言い難かったが、大統領選挙においては、ファーストレディとして世界中の要人との人脈を築き上げたことを強くアピールしてきた。オバマが彼女を国務長官に指名した背景には、圧倒的な知名度など彼女の「即戦力になる経験」を重視し、「[[プラグマティズム|実利的]]」な政権であることを示す一方で、大統領選挙で党内に入った亀裂を融和し「超党派」性をアピールしたかったという事情がある。
2009年1月13日に上院外交委員会はヒラリーを召還して国務長官承認のための公聴会を開始し、オバマ大統領就任後の[[1月21日]]に上院の本会議が賛成94反対2でヒラリーの国務長官就任を承認した。これに伴いヒラリーは正式に
国務長官としてのヒラリーの最初の外遊先は[[東アジア]]諸国であり、日本・[[インドネシア]]・韓国・中華人民共和国を順に訪問して無難な外交デビューを飾った<ref group="注釈">インドネシアではオバマ大統領の母校に訪問。またテレビ番組にも出演した。それにはイスラム社会との冷え切った関係修復があると言われている。</ref>。他方で中東和平・[[対テロ]]など喫緊の課題を多く抱える中近東・西南アジアで、大統領と直接協議する権限を与えられた特使が実務に当たっており、外交経験の少ないヒラリーは大きな懸案の少ない無難な地域で仕事を始めざるを得なかったという事情があった。
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同年に一部では2年後の大統領選挙に向けて、副大統領候補としてバイデン副大統領と副大統領職と国務長官職を交代するのではないかという憶測が飛び交ったが、オバマ政権は「全く真実ではない」と否定する声明を出しており、ヒラリー本人もこの時点ではこれを否定していた<ref>{{Cite news |url=http://www.afpbb.com/article/politics/2764310/6137626 |title=クリントン副大統領説、ホワイトハウスが否定 |newspaper=AFPBB News |agency=AFP通信 |publisher=クリエイティヴ・リンク |date=2010-10-07}}</ref>。
[[2011年]]3月18日
[[福島原発事故]]を受けて、東南アジア訪問の途中に日本へ立ち寄ることとなった。日本での滞在予定時間は5時間だったが、ヒラリーは元大統領夫人として天皇への面会を求めた<ref name="rfi">[http://www.rfi.fr/asie-pacifique/20110417-etats-unis-participeront-reconstruction-japon/ Les Etats-Unis participeront à la reconstruction du Japon] 2011年4月17日 RFI EN 15 LANGUES。</ref><ref name="wsj">[https://blogs.wsj.com/japanrealtime/2011/04/18/u-s-secretary-clintons-social-diplomacy/ U.S. Secretary Clinton’s Social Diplomacy] 2011年4月18日 THE WALL STREET JOURNAL。</ref>。[[菅直人内閣]]はこれを受け入れ、ヒラリーは2011年4月17日に天皇・皇后と面会した。民主党政権下では、[[鳩山由紀夫内閣]]の時の中国の[[習近平]]政治局常務委員(当時)訪日の際に次いで、皇室への[[国事行為]]の依頼は1か月以上前に行うという慣行(1か月ルール)を破る2度目の事案となった<ref>(参考)[http://maiko.cocolog-nifty.com/kuma/2011/05/post-4825.html May 05, 2011 in 経済・政治・国際] もりのくま。</ref>。なお、ヒラリーは2009年2月に訪日した際にも、アメリカ合衆国国務長官として皇后と面会している<ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/4030909/ “報道の女王”安藤優子アナが大絶賛する巨乳アナとは!?] 2009年2月23日(リアルライブ) ライブドアNEWS。</ref>。
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2013年1月25日、オバマ大統領と初めて2人だけで[[CBS]]テレビに出演し、大統領からは「彼女は最高の国務長官の1人として政権を去る。公の場で感謝を伝えたかった」と称賛された<ref>{{cite news |url=http://www.jiji.com/jc/zc?k=201301/2013012600190&rel=y&g=int |title=最高の国務長官」と絶賛=米大統領、クリントン氏とTV初共演 |newspaper=時事ドットコム |publisher=時事通信社 |date=2013-01-26 |accessdate=2013-02-02 |archiveurl=https://archive.is/20130426210140/http://www.jiji.com/jc/zc?k=201301/2013012600190&rel=y&g=int |archivedate=2013年4月26日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。翌日にCBSで放送された単独インタビューでは2016年の大統領選挙について訊かれ、「あす、あるいは来年のことは予測できない」と立候補に含みを持たせたともとれる発言をしている<ref>{{cite news |url=http://www.jiji.com/jc/zc?k=201301/2013012800193&rel=y&g=int |title=米大統領選出馬に含み=待望論拡大も-クリントン長官 |newspaper=時事ドットコム |publisher=時事通信社 |date=2013-01-28 |accessdate=2013-02-02 |archiveurl=https://archive.is/20130426190806/http://www.jiji.com/jc/zc?k=201301/2013012800193&rel=y&g=int |archivedate=2013年4月26日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。任期の終わり頃には国民の人気は高くなっており、退任直前の2013年1月に[[ワシントン・ポスト]]と[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABC]]が共同で行った[[世論調査]]では支持率65パーセントだった<ref>{{cite news |url=http://www.afpbb.com/article/politics/2923928/10183002 |title=クリントン国務長官、2016年大統領選出馬に含み |newspaper=AFPBB News |agency=AFP通信 |publisher=クリエイティヴ・リンク |date=2013-01-28 |accessdate=2013-02-16}}</ref>。
2月1日、「皆と
ヒラリーは雑誌のインタビューで、2014年に入り[[イスラーム過激派|過激派組織]][[ISIL]]の勢力が増していることについて、[[シリア]]での穏健な反[[バッシャール・アル=アサド|アサド]]勢力を支援しなかったことが原因と、[[バラク・オバマ|オバマ]]大統領の政策を失敗と批判した<ref>{{cite web |title=オバマ氏とヒラリー氏すきま風 大統領選を意識し距離? |newspaper=[[朝日新聞]] |url=http://www.asahi.com/articles/ASG8J4F2HG8JUHBI00Q.html |date=2014-8-17 |accessdate=2014-8-17|author=大島隆 }}</ref>。
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