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=== 現役時代 ===
{{by|1967年}}は高卒ルーキーながら、いきなり50試合に登板。8月からは先発とても起用され8勝を挙げるなど奮、[[規定球回]](13位、防御率2.76)にも達する<ref name="元ヤクルト・浅野氏 「波瀾万丈」の集大成 66歳で14年ぶりの国内プロへ DeNA1・2軍巡回投手コーチに就任">[https://www.zakzak.co.jp/smp/sports/baseball/news/20151222/bbl1512220830001-s1.htm&ved=2ahUKEwjo7q6OmabvAhWVAYgKHegiCpEQFjAGegQIChAC&usg=AOvVaw2jrT_qw7Wzyvu1HJoGBvmr&cshid=1615396197642 元ヤクルト・浅野氏 「波瀾万丈」の集大成 66歳で14年ぶりの国内プロへ DeNA1・2軍巡回投手コーチに就任]</ref>。
 
{{by|1969年}}には[[阪神タイガース|阪神]]へ移籍した[[鈴木皖武]]に代わり、抑えの切り札として起用される。
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{{by|1973年}}に14勝12敗で初の二桁勝利を挙げる。
 
{{by|1974年}}に12勝15敗5セーブで防御率2.3939([[関本四十四]]に次ぐリーグ2位)と活躍<ref name="巨人とヤクルトの交換トレードは44年ぶり 浅野-倉田のようにVの使者となれるか">[https://www.daily.co.jp/baseball/2021/03/01/0014117264.shtml%3fpg=amp デイリースポーツonline 巨人とヤクルトの交換トレードは44年ぶり 浅野-倉田のようにVの使者となれるか]</ref>。1974年は[[4月]]から内容は[[クオリティ・スタート]]を達成するも、3連敗スタートとなり、[[4月23日|同23日]]の巨人戦(神宮)での完投勝利でこの年初の勝ち星を挙げるが、その後も好投しながら勝ち星につながる試合は少なく、[[7月3日]]の[[中日ドラゴンズ|中日]]戦(神宮)での敗戦で早くも10敗を記録<ref name="1974年浅野啓司、全登板成績">[http://classicstats.doorblog.jp/archives/57007431.html クラシックSTATS鑑賞 1974年浅野啓司、全登板成績【2年連続2ケタ勝利も5年連続2ケタ敗戦】]</ref>。前半戦6勝11敗ながらも4年ぶり2度目の[[1974年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスター]]に選出され、前回選出時は出場辞退したため、[[7月23日]]の第3戦([[広島市民球場 (初代)|広島市民]])でオールスター初登板を果たした<ref name="1974年浅野啓司、全登板成績" />。後半戦は[[肩|右肩]]痛で一度離脱したものの、[[9月12日]]の[[横浜DeNAベイスターズ|大洋]]戦(神宮)での完投勝利で2年連続2桁勝利となる10勝に到達、リリーフではこの年から公式記録となったセーブを5つ記録<ref name="1974年浅野啓司、全登板成績" />。[[松岡弘]]と共に投手陣の柱として投球回200イニングを超えたが、2年連続2桁勝利を果たすも援護に恵まれない試合も多く、5年連続で2桁敗戦となった<ref name="1974年浅野啓司、全登板成績" />。
 
この頃はオーバースローの本格派右腕で速球に威力があり、制球力も相応にあった。変化球はカーブ、シュート、シンカー、フォークを武器としており、松岡や[[安田猛 (野球)|安田猛]]らと共に、主力投手として10年間で70勝を挙げ、ヤクルト不遇の時代を支えたが、{{by|1975年}}に[[腰]]を痛めて登板機会が減少。[[広岡達朗]]監督の指導法とも合わず低迷が続く。