「第二次日韓協約」の版間の差分

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→‎伊藤の強圧: 出典の記述で指す会議が不明。「かうした会議の間でも王様の大奥の方で、どんな企てを巡らされてゐるかを刻々知る必要があるので、ちゃんと人を配置させておいた。」
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== 交渉過程 ==
=== 伊藤博文強圧内閲覧 ===
11月15日、
 
韓国皇帝に謁見した伊藤博文は「朕今自ら之を裁決することを得ず。朕が臣僚に諮詢し又一般人民の意向をも察するの要あり」。
 
 
11月15日、伊藤博文が韓国皇帝に謁見した。その内容は翌16日に林権助在韓公使が本国桂臨時兼任外務大臣宛に電報で報告した<ref>{{Cite web|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/38-1.html|title=日本外交文書デジタルアーカイブ第38巻第1冊(明治38年/1905年)「10 伊藤特派大使遣韓ノ件」486-487頁「ニ四〇 伊藤特派大使韓帝ニ内謁見シテ日本ニ外交権委任ノ必要ニ付陳奏ノ件」|accessdate=2021年9月1日|publisher=外務省外交史料館}}</ref>。それによると、韓国皇帝は「哀訴」して伊藤の保護国化要求をかわそうとしたが、伊藤は「最早寸毫変改の余地なきを述べて之を拒否」した。{{Quotation|皇帝は……哀訴的情実談を持出し大使(※伊藤)使命の条件を可成緩和軽減せむことを極力努めらるるものの如く……陛下は既に大勢の然らしむる所敢て之(※保護国化)を絶対に拒絶の意にあらずと雖も要は只形式を存し其内容に至ては如何様に協定せらるるも敢て辞する所にあらずとて数回となく形式保存説を以て哀訴し其困難の情況を弁疏せらるるに過ぎざりしかば大使は……最早寸毫変改の余地なきを述べて之を拒否し該約案を皇帝に内示し……皇帝は終に大使の意翻すべからざるを知り兎も角外部大臣に命じ妥協の途を講ぜしむべき旨承諾せらる。|林公使報告「伊藤特派大使韓帝ニ内謁見シテ日本ニ外交権委任ノ必要ニ付陳奏ノ件」}}また伊藤博文自身が提出した[[復命書]]<ref>{{Cite web|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/38-1.html|title=日本外交文書デジタルアーカイブ第38巻第1冊(明治38年/1905年)「10 伊藤特派大使遣韓ノ件」中の「伊藤大使謁見始末」499‐503頁|accessdate=2021年9月1日|publisher=外務省外交史料館}}</ref>(出張報告書)には伊藤と皇帝のやりとりが詳細に記されている。{{Quotation|大使(伊藤) 本案は帝国政府が種々考慮を重ね最早寸毫も変通の余地なき確定案にして……断じて動かす能はざる帝国政府の確定議なれば今日の要は唯だ陛下の御決心如何に存す。之を御承諾あるとも又或は御拒みあるとも御勝手たりと雖も若し御拒み相成らんか、帝国政府は已に決心する所あり。其結果は果して那辺に達すべきか。蓋し貴国の地位は此条約を締結するより以上の困難なる境遇に坐し一層不利益なる結果を覚悟せられざるべからず
 
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=== 日本軍の包囲・監視 ===
当時王宮内外には多数の日本軍兵士・巡査らがいた。林公使によると「見張り」「逃げ出さぬやうに監視」の目的であった(林公使回想<ref>{{Cite web|title=わが七十年を語る - 国立国会図書館デジタルコレクション|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1878301/128|website=dl.ndl.go.jp|accessdate=2021-09-06|language=ja|quote=「もう一つの手配としては長谷川大将に頼んで或る見張りをすることなんです。それは筋書どほりわたしの所に各大臣が集る。その話の内容は朝鮮としては非常に大きい問題であることとて、無論列席した大臣等は嫌がるに違ひありません。一先す引きあげて公使館より宮中にゆくといふ事にもなれば、その途中で逃げてしまふものも出来るに相違ない。この用慎のために憲兵か何かを予め手配しておいて、途中逃げださぬやうに監視して貰ひたい。勿論名目は護衛といふ形を取るのです。|page=224}}</ref>)。皇帝が退去命令を出したが日本兵らは言うことを聞かなかった(警務顧問丸山警視11月20日付報告<ref name=":1" /><ref name=":2" />)。韓国の「大韓季年史」では日本兵らは「恐喝気勢」<ref>{{Cite web|title=한국사데이터베이스|url=http://db.history.go.kr/item/level.do?setId=5&totalCount=5&itemId=sa&synonym=off&chinessChar=on&page=1&pre_page=1&brokerPagingInfo=&position=2&levelId=sa_006_0030_0020_0090|website=db.history.go.kr|accessdate=2021-09-06|quote=伊藤博文及其隨員長谷川好道及其部下各武官多數歩兵・騎兵・憲兵與巡査及顧問官・輔佐員, 連續如風雨, 而馳入闕中, 把守各門, 漱玉軒咫尺重重圍立, 銃刀森列如鐵桶, 内政府及宮中, 日兵亦排立, 其恐喝氣勢, 難以形言}}</ref>であったとする。また当時の報道によると、日本兵は王宮内外を「包囲」<ref>{{Cite web|title=Yamato Shinbun 1905.11.20 — Hoji Shinbun Digital Collection|url=https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=yms19051120-01.1.1&l=en|website=hojishinbun.hoover.org|accessdate=2021-09-06|quote=本日午前の電報 日本兵遂に示威行動を執る 韓帝及びニ大臣我要求に応ぜず▲三千の日本兵京城王宮を包囲す 京城十一月二十日発 韓国皇帝及び二名の大臣は韓国独立の放棄に対する日本の要求に向ひ其承認の調印を拒めり、茲に於て三千の日本兵は談判進行中王宮を包囲せり。日本の要求を承認せし大臣等は賄賂を受けたりとの説あり。}}</ref>するだけでなく王宮前で演習も行った<ref>{{Cite web|title=Meiji Repository: 一九〇五年「第二次日韓協約」|url=https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/handle/10291/1636|website=m-repo.lib.meiji.ac.jp|accessdate=2021-09-06|page=5}}</ref>。
 
また林公使は王宮内各所にスパイを配置して韓国側の動きを報告させたと述べている(林公使回想<ref>{{Cite book|和書|title=わが七十年を語る|year=1935|publisher=第一書房|page=226|quote=わたしは予め、かうした会議の間でも王様の大奥の方で、どんな企てを巡らされてゐるかを刻々知る必要があるので、ちゃんと人を配置させておいた。その密使が、そのたそがれの通り魔の刻に、かういふ報告を齎した。}}</ref>)。
 
== 条約全文と内容 ==