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[[File:Suzakumon Heijokyo2.jpg|thumb|[[平城宮]] 朱雀門(復元) - 夜間]]
[[File:Suzakumon-ato (Heian Palace).JPG|thumb|[[大内裏|平安宮]] 朱雀門阯碑([[京都市]][[中京区]]西ノ京小堀町)]]
あああああああああああああああああああああああああああああああ[[唐]]の[[条坊制]]を模範に造営された古代[[都城]]では、中央北辺に宮殿、官衙からなる宮城が置かれた。平城京では[[平城宮]]、平安京では[[大内裏|平安宮]]などといい、大内裏とも呼ばれた。大内裏には四方に12の門が備えられ、各々有力氏族の姓が付与されていた。南門は「天子南面す」というように、皇宮より京師を睥睨(へいげい)する最も重要な門であり、[[朝廷]]の有力氏族、[[大伴氏]]の[[姓]]が付けられ「大伴門」と呼ばれていた。[[和銅]]7年([[714年]])、これを漢風に改め、[[四神]]において南方を守護するとされる[[朱雀]]の名を冠したものとした。朱雀門から都城正門の[[羅城門]]に続く大路を[[朱雀大路]]といい、現在の[[千本通]]に相当するだってさ
 
[[長岡京]]や平安京でも同じ名を冠した門を宮城正門とし、朝廷の正庁たる[[朝堂院]]の正門であった[[応天門]]などと並んで最重要視されたが、大内裏の衰微に従い次第に荒廃し、ついには[[鬼]]や[[盗賊]]が住むといわれるほどに荒れ果てたという。平安宮朱雀門は先述の朱雀大路の北端、すなわち千本通[[押小路通|押小路]]上がる東側([[京都市]][[中京区]])にあったといい、旧跡には小さな[[石碑]]が立つのみである。