「船本洲治」の版間の差分

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スタブですが、とりあえず
 
これほどの分量で流石にスタブとは言えないんではないでしょうか…
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'''船本洲治''' (ふなもと しゅうじ 1945年12月23日-1975年6月25日)は日本の革命思想家、ノンセクトラジカル系極左活動家、労働運動家、暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議(釜共闘)幹部、[[鳶職|トビ職]]、自称する職業は労務者。満洲生まれ広島県出身、広島大学中退。流動的下層労働者([[寄せ場]]の[[日雇い|日雇い労働者]])を真の革命の主体と考え、釜ヶ崎([[あいりん地区]])や[[山谷 (東京都)|山谷]]での日雇い労働者たちの労働運動を主導しようとした。船本の思想は[[東アジア反日武装戦線]]などのアナキズム系過激派に近く<ref group="註">実際に船本は東アジア反日武装戦線の活動家との交流を持ち、東アジア反日武装戦線は船本の影響をうけている。船本も東アジア反日武装戦線の活動を高く評価している。-読売新聞昭和50年6月27日p.23、読売新聞夕刊51年9月28日夕刊p.11、読売新聞昭和54年8月21日p.23、船本洲治『黙って野たれ死ぬな』株式会社共和国、2018年、p.290船本遺書」</ref>、悪徳手配師や劣悪な飯場に対する現場闘争や日雇い労働者による暴動の扇動など直接的な暴力を行動の主体とした。暴動を組織化して革命を導く、そのあまりに過激な思想により警察に徹底的にマークされ、1973年には証人威迫容疑、1974年にはあいりん総合センター爆破事件の容疑で指名手配を受けて地下に潜伏。1975年、皇太子[[明仁]]の[[沖縄国際海洋博覧会|海洋博]]訪問を控えた沖縄にて皇太子暗殺を企てるも断念し、アメリカ軍[[嘉手納基地]]ゲート前にて「皇太子訪沖反対」などを叫びつつガソリンをかぶって焼身自殺した(船本の思想に共感する者はこれを焼身決起と言う)。著名な言葉・スローガンに「だまってトイレを詰まらせろ」「やられたらやりかえせ」「黙って野たれ死ぬな」などがある。
山谷の労働運動を主導した山岡強一は『山谷-釜ヶ崎の運動における船本洲治の意義は、一言でいうと寄せ場の階級性を暴き、そこに闘争を組織しようとした点にある。-引用、山岡強一「山谷-釜ヶ崎の闘いの歴史と船本洲治」<ref name="死ぬな1985 p.266>船本洲治『黙って野たれ死ぬな』れんが書房新社、1985年、p.266</ref>』と評価している。船本の思想は、山岡強一や礒江洋一<ref group="註">磯江洋一は1979年に山谷マンモス交番巡査刺殺事件を起こした活動家。 -[https://bunshun.jp/articles/-/42134?page=2 文春オンライン・牧村康生「やられたらやり返せ!」ドヤ街・山谷に棲む人々はなぜヤクザに抗争を仕掛けたのか]2021年10月9日閲覧</ref>などの寄せ場の活動家のみならず、東アジア反日武装戦線、北海道庁爆破事件の[[大森勝久]]などにも影響を与えている。名は舩本洲治と書かれることもあり、また釜ヶ崎では上田耕平と名乗り活動家仲間からは「こーちゃん」「こうちゃん」の愛称で呼ばれていた。