「船本洲治」の版間の差分

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(これほどの分量で流石にスタブとは言えないんではないでしょうか…)
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*1973年、釜共闘や現闘委による悪徳手配師や行政との闘いが続く中で、4月 船本は前年の関西建設闘争に関する証人威迫容疑でまたも指名手配され、以後は半潜伏状態を余儀なくされながらも釜ヶ崎・山谷の運動に指導的役割を果たす<ref>船本洲治『黙って野たれ死ぬな』れんが書房新社、1985年、p.256,304,305</ref>。1973年末、北海道に潜伏<ref >船本洲治『黙って野たれ死ぬな』株式会社共和国発行、2018年、p.351</ref>。
*1974年初頭 東京を経て沖縄へ。以後沖縄を拠点とする<ref >船本洲治『黙って野たれ死ぬな』株式会社共和国発行、2018年、p.351</ref>。3月、あいりん総合センター爆破事件の主犯の容疑で警察庁からも重要犯人として全国指名手配され<ref group="註">船本自身やその仲間たちはそれらの容疑は警察のでっち上げだと主張している。あいりん総合センター爆破事件で船本の共犯とされた者は1983年無罪判決が確定している。-船本洲治『黙って野たれ死ぬな』れんが書房新社、1985年、p.163-174,256,304,305</ref>、これ以降は完全な潜伏活動となる<ref>朝日新聞大阪朝刊昭和50年6月27日p.1</ref><ref>船本洲治『黙って野たれ死ぬな』れんが書房新社、1985年、p.304</ref>。潜伏しながらもいくつかの論文・文章を発表している。また、この時期には東アジア反日武装戦線の爆弾事件が連続している<ref >船本洲治『黙って野たれ死ぬな』株式会社共和国発行、2018年、p.351-352</ref>。
*1975年。5月東アジア反日武装戦線のメンバーが一斉に逮捕される(船本と東アジア反日武装戦線との関係については後述)。6月25日船本は皇太子[[明仁]]の[[沖縄国際海洋博覧会|海洋博]]訪問を控えた沖縄にて皇太子暗殺を企てるも単独行動となった船本にその力はなく暗殺は断念、代わりに6月25日、抗議行動として、アメリカ軍[[嘉手納基地]]ゲート前にて「海洋博反対」「皇太子訪沖反対」などを叫びつつガソリンをかぶって焼身自殺した<ref >船本洲治『黙って野たれ死ぬな』株式会社共和国発行、2018年、pp.287-291、326-335、353</ref><ref>朝日新聞大阪朝刊昭和50年6月27日p.1</ref>。元釜共闘の風間竜次は船本が単独で焼身決起しなければならなかった理由の一つに釜ヶ崎や山谷の組織が堅固なものではなかったことと、オイルショック後の不況によって従来のような日雇いの仕事が減り、寄せ場内での分断が起こっていたことなどを挙げ「地域性(特殊性)、世界性(普遍性)の思想的剥離と組織不備が船本を放置、孤立化、単身者にしてしまった。-風間竜次「決起40年記念 船本洲治」日本寄せ場学会編集『寄せ場』(27)p.140-141」と述べている<ref>風間竜次「決起40年記念 船本洲治」日本寄せ場学会編集『寄せ場』(27)p.140-141</ref>。新聞には「大阪府警は船本が潜伏活動に疲れて自殺したと見ている」と書かれている<ref>朝日新聞大阪朝刊昭和50年6月27日p.1</ref>。7月、釜ヶ崎で船本洲治人民葬<ref >船本洲治『黙って野たれ死ぬな』株式会社共和国発行、2018年、p.353</ref>。
 
==名前・職業==