「日本海海戦」の版間の差分

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[[バルチック艦隊]]は33,340[[キロメートル|km]]もの長大な距離を1904年(明治37年)10月15日から1905年(明治38年)5月27日まで半年以上航海を続けた。初めての東洋の海への不安、旅順艦隊を撃破した日本海軍への恐れは水兵の間に潜在的に蔓延していて、[[ドッガーバンク事件]]のような重大なミスを引き起こしている。
 
さらにフランス領インドシナの[[カムラン湾]]出航後は[[ウラジオストク]]まで寄港できる港がないことから、各艦は石炭を始め大量の補給物質を積み込んでいた。このためただでさえ実際の[[排水量]]が設計上の排水量をかなり超過しているロシア戦艦はさらに排水量が増えてしまい、舷側装甲帯の水線上高さの減少や、機動力、[[復原性|復原力]]の低下に繋がり、日本海海戦における各戦艦のあっけない沈没の大きな要因となった。
 
長期の航海では船底についた[[貝]]や[[フジツボ]]が船足を落とす。当時の軍艦は2か月に1回程度は船底の貝を落としていた。これは本格的には[[ドック]]に入らなければできない作業であったから、長い航海の間にバルチック艦隊は徐々に最高速度を落としていった。
 
また、燃料の石炭も日英同盟から十分なによって当時英国が市場を押さえていた[[無煙炭]]を十分な量確保できなかった結果、艦自体のスピードの低下や、もうもうと吐く黒煙によって艦隊の位置を知られてしまう失態を演じてしまった。
 
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