「松平家忠 (形原松平家)」の版間の差分

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{{otheruses|[[形原松平家]]5代当主|[[深溝松平家]]4代当主|松平家忠|[[東条松平家]]3代当主|松平家忠 (東条松平家)}}
{{出典の明記|date=2017年4月|ソートキー=人1582年没}}
{{基礎情報 武士
| 死没 = [[天正]]10年[[10月16日 (旧暦)|10月16日]]([[1582年]][[11月11日]])
| 改名 =
| 別名 = [[仮名 (通称)|通称]]:紀伊守、又七郎
| 諡号 =
| 神号 =
| 父母 = 父:[[松平家広 (形原松平家)|松平家広]]<br>母:[[水野忠政]]の娘・[[於丈の方]]
| 兄弟 = '''家忠'''、左近、[[鳥居元忠]]正室
| 妻 = [[正室]]:'''[[酒井正親]]の娘'''
| 子 = '''[[松平家信|家信]]'''
| 特記事項 =
 
== 略歴 ==
4代当主・[[松平家広 (形原松平家)|松平家広]]の子として誕生した。母・於丈の方は、[[於大の方]]が[[松平広忠]]に離縁され実家の[[水野氏|水野家]]へ戻された際、共に実家に戻されたと伝えられているが、小川雄は家忠の誕生が松平広忠と於大の方の離縁の数年後であることからその通説には矛盾があるとして、形原松平家は水野家と同調して広忠と対立していたとしている<ref>東三河を平定した[[今川義元]]が[[形原城]]を[[奥平貞友]]に与えており、形原松平家が[[今川氏|今川家]]によって一時的に形原を追われた可能性が高いとされる</ref><ref>小川雄「戦国・豊臣大名徳川氏と形原松平氏」戦国史研究会 編『戦国期政治史論集 西国編』(岩田書院、2017年) ISBN 978-4-86602-013-6 P42-43.</ref>。
 
その後、主家の[[松平氏|松平家]]と同様今川家に従属し、家忠の弟の左近が竹千代と共に人質になり今川方に送られていたが、[[永禄]]3年([[1560年]])に今川義元が[[桶狭間の戦い]]で討ち死にし、今川家が弱体化すると、主家の[[徳川家康|松平元康]](後の徳川家康)と共に形原松平家は今川家より離反したが、その際に左近は処刑されている。しかし、父・家広は周辺の領主との所領争いをきっかけにすぐに今川家に寝返り、間もなく再び元康に従うという行動を取っている<ref>小川雄「戦国・豊臣大名徳川氏と形原松平氏」戦国史研究会 編『戦国期政治史論集 西国編』(岩田書院、2017年) ISBN 978-4-86602-013-6 P43-47.</ref>。
 
家忠が成人し当主となると、家康に従い、[[三河一向一揆|一向一揆]]と戦い、また、今川方の吉田城攻めにおいては奮戦して勝利し、左近の仇である[[小原鎮実]]を破った。後に[[駿河国]]を追われ掛川城に逃れた[[今川氏真]]を家康が攻略した際には、氏真を[[後北条氏]]の領地である[[伊豆国]]へ護送する任を果たした。[[天正]]3年([[1575年]])の[[長篠の戦い]]にも参戦し活躍する。
== 脚注 ==
<references/>
 
== 参考文献 ==
* 小川雄「戦国・豊臣大名徳川氏と形原松平氏」戦国史研究会 編『戦国期政治史論集 西国編』(岩田書院、2017年) ISBN 978-4-86602-013-6
 
{{松平氏歴代当主|形原松平家||5代}}