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[[File:Yang Pu.png|thumb|right|200px|楊溥]]
'''楊 溥'''(よう ふ、[[洪武]]5年([[1372年]]) - [[正統 (明)|正統]]11年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1446年]][[8月6日]]))は、[[明]]前期の政治家。[[字]]は弘済。[[明史]]巻148に伝がある([[楊栄]]・[[楊士奇]]との合伝)。
 
== 略歴 ==
[[湖北省荊州府]][[石首県]]出身で[[建文]]2年([[1400年]])の[[進士]]。同年の進士である楊栄と並んで[[翰林院]]編修となった。[[永楽帝]]の即位後皇太子朱高熾(後の[[洪熙帝]])に仕え、[[永楽 (明)|永楽]]12年([[1414年]])に太子が永楽帝の怒りに触れたことに関係して投獄されたが洪熙帝の[[即位]]により復権した。その後も累進して[[宣徳]]9年([[1434年]])に[[礼部]][[尚書]]となり、正統9年([[1444年]])から死去するまで[[内閣大学士]](首輔)を務めた。同時代に相次いで内閣大学士を務めた[[楊栄]][[楊士奇]]と「三楊」と称せられ、文学においても[[台閣体]]の創始者として知られている(なお、「三楊」という呼称は彼らの生前すでにあった)。正統11年([[1446年]])7月に病死。[[太師]]を追贈され文定と[[諡]]された。
 
== 脚注 ==